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== 生涯 ==
[[1370年]]に秦王に封じられ、[[1378年]]に[[西安]]に赴任した。父の洪武帝からは兄の朱標に次いで寵愛され、赴任するときも父から訓戒を受けている。彼自身は宿敵である元王朝の娘を妻にしていながら仲睦まじく、温厚で篤実な人物だったという。しかし[[1389年]]、何らかの罪を犯したとして洪武帝により都に召還される。洪武帝は厳罰を考えていたが、兄の朱標が懸命に弁護したため無罪とされた。このことから朱標とも仲が良かったと思われる。
 
1393年、[[逃州]]の少数民族が反乱を起こすと、洪武帝の命令で出兵して鎮圧に貢献した。しかし同年の3月に病死した。享年38。
 
父の洪武帝は前年の朱標に続く年長の我が子の死に「朕より早く世を去るとは」と嘆いたという。また妻は夫の後を洪武帝から殉死を命じられた。
 
== 家族 ==