「リヒャルト・ヘーニヒスヴァルト」の版間の差分

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'''リヒャルト・ヘーニヒスヴァルト'''({{lang-hu|Richard Hönigswald}}、[[1875年]][[7月18日]] - [[1947年]][[6月11日]])は、[[オーストリア=ハンガリー帝国]]出身の[[哲学者]]。[[新カント主義]]のグループに分類される。
 
== 概要 ==
マジャローヴァール(現在の[[モションマジャローヴァール]])で生まれた。[[医学]]と[[哲学]]を[[アロイス・リール]]と[[アレクシウス・フォン・マイノング]]のもとで学び、1916年からは[[ヴロツワフ大学|ブレスラウ大学]]にて哲学、[[心理学]]及び[[教育学]]の教授として活躍した。[[ブレスラウ]]では、1924年の[[ノルベルト・エリアス]]の博士論文の指導を受け持っていた。1930年からは[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]の教授となる。ヘーニヒスヴァルトの活動における重点というのは妥当性と言語哲学の視点からの認識論であった。ヘーニヒスヴァルトはそれだけに留まらず方法論を発達させようとも試み、この方法論は人文科学のみならず自然科学でも用いられるべき方法論だった。さらに思考倫理学と教育学の問題にも取り組んだ。1933年には[[ユダヤ人]]という自身の生い立ちが元で職を追放され、1938年の「[[水晶の夜]]」に3週間[[ダッハウ強制収容所]]に収容され、翌年の1939年に妻と娘と共にスイスを系有してアメリカへ亡命した。その8年後に[[コネチカット州]][[ニューヘイブン (コネチカット州)|ニューヘイブン]]で亡くなった。
オーストリア=ハンガリー帝国中部のマジャローヴァール(現在のハンガリー北西部[[モションマジャローヴァール]])で、[[ユダヤ人|ユダヤ系]]の家庭に生まれた。
 
[[医学]]と[[哲学]]を[[アロイス・リール]]と[[アレクシウス・フォン・マイノング]]のもとで学び、1916年からは[[ヴロツワフ大学|ブレスラウ大学]]にて哲学、[[心理学]]及び[[教育学]]の教授として活躍した。
 
マジャローヴァール(現在の[[モションマジャローヴァール]])で生まれた。[[医学]]と[[哲学]]を[[アロイス・リール]]と[[アレクシウス・フォン・マイノング]]のもとで学び、1916年からは[[ヴロツワフ大学|ブレスラウ大学]]にて哲学、[[心理学]]及び[[教育学]]の教授として活躍した。[[ブレスラウ]]では、1924年の[[ノルベルト・エリアス]]の博士論文の指導を受け持っていた。1930年からは[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]の教授となる。ヘーニヒスヴァルトの活動における重点というのは妥当性と言語哲学の視点からの認識論であった。ヘーニヒスヴァルトはそれだけに留まらず方法論を発達させようとも試み、この方法論は人文科学のみならず自然科学でも用いられるべき方法論だった。さらに思考倫理学と教育学の問題にも取り組んだ。1933年には[[ユダヤ人]]という自身の生い立ちが元で職を追放され、1938年の「[[水晶の夜]]」に3週間[[ダッハウ強制収容所]]に収容され、翌年の1939年に妻と娘と共にスイスを系有してアメリカへ亡命した。その8年後に[[コネチカット州]][[ニューヘイブン (コネチカット州)|ニューヘイブン]]で亡くなった
 
1933年には彼自身がユダヤ系という生い立ちが元で職を追放され、1938年の「[[水晶の夜]]」に3週間[[ダッハウ強制収容所]]に収容され、翌年の1939年に妻と娘と共に[[スイス]]を経由して[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へ亡命した。
 
その8年後に[[コネチカット州]][[ニューヘイブン (コネチカット州)|ニューヘイブン]]で亡くなった。
 
== 著作 ==
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* http://schrimpf.com/dhen/hoenigswald.html ([[Martin Heidegger|Heideggers]] Gutachten!)
 
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[[Category:ハンガリーの哲学者]]
[[Category:言語哲学者]]