「越智氏」の版間の差分

平成27年2月18日の版に巻き戻し:全体に百科事典の記述として不適切につき。
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|画像 =
|氏姓 = 越智[[宿禰]]
|始祖 = [[越智王]]?越智王存在していない。<br/>([[孝霊天皇]]の第1皇子は伊豆に流されて悪行がたたり自害した第3[[皇子]][[伊予皇子]]の第3[[王子]])
|出自 =
|氏祖 = [[越智益躬]]([[小市益躬]]([[紀益躬]]))
[[河野氏]]の記した『[[予章記]]』などで語られることの多い越智氏だが、[[孝霊天皇]]の第三[[皇子]][[彦狭島命|伊予皇子]]の第三[[王 (皇族)|王子]]を祖とするなどの粉飾が加えられていたりと信憑性に乏しく、越智氏自体の歴史は分らないことが多い。一般に越智氏系譜は河野氏系譜と混同視されており、疑問を投げかける声は少なくない。
 
==越智直とは==
越智直(あたい)、風早郡(かぜはやごう)、河野郷、河野守興、越智を以て成す、朝廷命で直の(位職)、姓を解し越智を以て氏と成す、越智郡河野庄土居字中ノ子(現住所 松山市南土井字中ノ子に中ノ子廃寺跡有り)、母方姓在所、土居中ノ子、孝徳紀、大化二年正月、越智値、河野守興(もりおき)、後に越智宿禰(すくね 位職)、と成る。朝廷より七つの姓も発布される。
===氏姓発祥の由来===
越智、都より遠い地、遠い地、越智と解すと(三島家譜資料)此姓越智直也と有る。
光仁紀、寛亀二年七月、越智直(河野守興)は風早郡河野郷の縁者、百五十の者の姓、
私使人男女養子にし越智姓を名乗らす、佐伯氏も直の位を名乗る、河野道信(四朗)も直の位を名乗る直の位は部曲の長官職(檀紀)、佐伯直は後ちに鞍馬職の位を受賜う。
 
文化年間、朝廷の任を受け長官職努めた、越智直は、風早郡を越智郡に改めた、政権を追われ朝廷籍職を離れ、越智郡頼る者も多く有り、越智河野は、氏分派後、改名、現在氏名名乗る者、由来系譜、脈洛無き者親族血脈無い現在の越智河野氏、越智河野は分派後、幹筋築山へ改名多くの者母方の姓を名乗った、八代岳中ノ子周防大向中ノ子有り。
 
===河野氏廃絶後分派 (幹筋、築山に改名) 主格一覧===
越智河野分派系図拠り河野氏築山氏名乗るその後の血脈越智河野源系相続幹筋は豪族河野家一族一類、越智河野四十九代道継の長男道有りの四番目の弟道成りは河野庄土居の中ノ子母方の氏へ戻した、幹筋兄弟の道忠、道茂、道種、道任、(道任は山城淀藩主)(道住は上島甘崎城主)(道宣は道前宣伊豫の守天徳寺殿)(道貞は稲葉組豊後臼杵藩主)(檀高、一柳祖、播磨小野藩主)(道定、来島藩豊後森藩主)南朝の忠臣豪族河野、土居、中ノ子、土居土佐守道正、一条子爵、藤原定子(ていか)末裔、紀伊系仲子、景行天皇次男末裔、暖系、得能、蒼山城淀藩主、稲葉子爵、豊後臼杵藩主、稲葉子爵、安房館山藩主、稲葉子爵、豊後森藩主、久瑠島子爵、稲葉小野藩主、一柳子爵、伊豫小松藩主、一柳子爵、と分派した他に一族縁者枝、伊藤、三島、河野、黒川男爵、諸氏有り、と分派した。
 
== 関連項目 ==