「ヘンリー5世 (イングランド王)」の版間の差分

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再起を図る父の率いるランカスター派が[[1399年]]にイングランドに上陸すると、リチャード2世は捕らえられてしまう。こうして父が[[ヘンリー4世 (イングランド王)|ヘンリー4世]]として即位し、彼も[[プリンス・オブ・ウェールズ]]に叙せられる。そして1399年11月10日に[[ランカスター公]]に叙された<ref>他にも[[コーンウォール公]]・[[チェスター伯]]・[[アキテーヌ公]]に叙された。実際に管理を始めたのは[[1400年]]10月からである。</ref>。
 
数年ののち、彼はイングランド軍の一部の指揮を実際に執るようになった。[[1403年]]の[[ウェオワイン・グリンドゥール]]の{{仮リンク|オウェイン・グレンダワー|en|Owain Glyndŵr}}の反乱に際しては自分の軍隊を率いてウェールズに向かい、さらにこの反乱に加担した[[ヘンリー・パーシー (ホットスパー)|ヘンリー・パーシー]](ホットスパー)に対しても、取って返して父の軍と合流し、{{仮リンク|シュルーズベリーの戦い|en|Battle of Shrewsbury}}で打ち破った<ref>16歳の王子の顔に矢が当たり、瀕死の重傷を負ったのはこの時の事である。通常の兵士であれば見放されてしまうような傷であったが、ヘンリーは最高の治療を受け、数日の後にはそれ以上傷が広がらないような形で矢尻を抜くことに成功した。ヘンリーの顔には永久に消えない傷が残ったが、何とか一命を取り留めることはできた。</ref>。
 
=== 王子としての役割とヘンリー4世との対立 ===
[[1408年]]まで、ヘンリーはオウェイン・グダワドゥによるウェールズの反乱の鎮圧に注力した。その後、父王の健康状態の悪化によって次第に彼の政治的権威が高まってきた。[[1410年]]1月からは叔父にあたる{{仮リンク|ヘンリー・ボーフォート (枢機卿)|en|Henry Beaufort|label=ヘンリー・ボーフォート}}と[[トマス・ボーフォート (エクセター公)|トマス・ボーフォート]]に助けられつつ、実質的な政権の支配者になった。
 
ヘンリー王子の政策は国内政策・対外政策ともに国王と異なっていたため、[[1411年]]11月の御前会議には王子は呼ばれなかった。ボーフォート兄弟がヘンリー4世の退位を画策していた可能性はあるが、この親子が対立するのは政治方針のみであった。そしてボーフォート兄弟に対立する勢力は王子の中傷に躍起になった。
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ヘンリー5世は
* フランス政府が反乱を起こしたオウェイン・グダワドゥに援助していたことへの賠償
* ブルゴーニュ派・アルマニャック派それぞれに支援を与えていたことへの代償
という理由で、領土割譲とフランス王位を要求した。これを拒否したフランスに対し、ヘンリー5世は長期休戦状態にあった[[百年戦争]]を再開し、フランス遠征を行った。