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Askaen (会話 | 投稿記録)
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== 略歴 ==
[[義淵]]に師事。[[養老]]元年([[717年]])[[遣唐使]]に学問僧として随行、入[[唐]]して智周に法相を学ぶ、在唐は18年に及び、その間当時の[[皇帝]]であった[[玄宗_(唐)|玄宗]]に才能を認められ、三品に準じて紫の[[袈裟]]の下賜を受けた。約20年後の[[天平]]7年([[735年]])次回の遣唐使に随い経論5000巻の[[一切経]]と諸々の[[仏像]]を携えて帰国した<ref>『続日本紀』巻第16、天平18年6月己亥(18日)条。</ref>。天平8年([[736年]])[[封戸]]を与えられた。翌天平9年([[737年]])[[僧正]]に任じられて内道場([[内裏]]において仏像を安置し[[仏教]]行事を行う建物)に入り、[[聖武天皇]]の母[[藤原宮子]]の病気を祈祷により回復させ賜物をうけた。[[<ref>福山敏男]]は『[[奈良朝寺院の研究]]』において、[[法華寺]](旧不比等邸)に隣接する[[隅寺]](現[[海竜王寺]])を[[内道場]]に擬している。</ref>
 
聖武天皇の信頼も篤く、[[吉備真備]]とともに[[橘諸兄]]政権の担い手として出世したが、人格に対して人々の批判も強く、失敗したものの天平12年([[740年]])には[[藤原広嗣]]が玄昉を排除しようと[[九州]]で兵を起こした([[藤原広嗣の乱]])。翌天平13年([[741年]])7月15日千手経1000巻を発願、書写・供養している<ref>『[http://www.emuseum.jp/detail/101016/000/000?mode=simple&d_lang=ja&s_lang=ja&word=%E4%BB%B2%E9%BA%BB%E5%91%82&class=&title=&c_e=&region=&era=&century=&cptype=&owner=&pos=1&num=1 千手千眼陀羅尼経残巻]』として1巻のみ現存。[[京都国立博物館]]蔵、[[国宝]]。</ref>。しかし、[[藤原仲麻呂]]が勢力を持つようになると、天平17年([[745年]])筑紫[[観世音寺]]別当に[[左遷]]、封物も没収され、翌天平18年([[746年]])任地で没した。
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[[Category:遣唐使]]
[[Category:7世紀生]]
[[Category:内道場]]
[[Category:746年没]]
[[Category:746年没]]
[[Category:大蔵経]]