「一式双発高等練習機」の版間の差分

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== 概要 ==
[[1939年]](昭和14年)、帝国陸軍は立川飛行機に対して[[九五式二型練習機]]の後続機として、多目的に使用できる高等練習機の試作を指示した。条件として全金属・双発・[[降着装置|引込脚]]式を基本とし、正副[[パイロット (航空)|操縦者]]のほかに操縦訓練生・[[航法士|航法手]]訓練生・[[通信士|通信手]]訓練生・爆撃手訓練生・[[航空機関砲|旋回機関銃]]手訓練生などの生徒とその[[教官]]・[[助教]]、計6~7名が乗り組むことを求められた。立川では、[[中島飛行機|中島]][[九七式輸送機]]や[[ロッキード]][[ロッキード L-14 スーパーエレクトラ|スーパーエレクトラ]]の[[ライセンス生産]]機である[[一式貨物輸送機|ロ式輸送機]]を生産した経験を生かして開発し、試作機は[[1940年]](昭和15年)6月に初飛行した。審査結果は良好だったため若干の機体の改修の後、[[1941年]](昭和16年、[[神武天皇即位紀元|皇紀]]260'''1'''年)7月に'''一式双発高等練習機'''として制式採用された。
 
立川としては初めての自社開発の全金属製双発機だったが、[[航空用エンジン|エンジン]]の信頼性が高く機体の耐久性に優れ、また[[操縦席]]からの視界がよく、機内も様々な訓練に対応できる広いスペースが確保されているなど使い勝手に優れた傑作機であった。そのため操縦・航法練習機型の'''甲型'''(キ54甲)、通信・爆撃・射撃練習機型の'''乙型'''(キ54乙)といった多目的練習機としてだけではなく、[[輸送機]]型の'''丙型'''(キ54丙)、[[哨戒機]]型の'''丁型'''(キ54丁)も生産され、[[連絡機]]としても使用された。主に航空関係の各種[[軍学校]]、[[教育飛行隊]]、司令部飛行班や[[陸軍航空審査部|航空審査部飛行実験部]]にも配備され、丙型は[[空挺部隊]]である[[挺進連隊]](挺進団・[[第1挺進集団]])の[[落下傘]]降下練習機として、また[[民間機]](名称:Y39型輸送機)としても使用された。また、少数機が[[満州国軍]]にも要人輸送機として供与された。