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[[Image:Nebukadnessar II.jpg|right|thumb|ネブカドネザル2世]]
 
'''ネブカドネザル2世'''('''Nebuchadnezzar''', 本来の[[アッカド語]]表記では'''ナブ・クドゥリ・ウル2世''' ('''Nabû-kudurri-uṣur'''))は[[新バビロニア]]王国の2代目の王である(在位[[紀元前605年]] - [[紀元前562年]])。名前の由来については「[[ナブー (メソポタミア神話)|ナブー神]]よ、国境の境界石を守りたまえ」の意味など諸説ある。[[ナボポラッサル]]の長男。また、二度にわたる[[バビロン捕囚]]を行った
 
== 来歴 ==
新バビロニア王国建国者ナボポラッサルの息子として生まれた。[[旧約聖書]]の中に「ネブカドネツァル」として現れることでも知られるネブカドネザル2世は、父王の治世中より軍を率いて転戦していた。[[ハッラーン|ハラン]]にあった[[アッシリア]]の残存勢力を攻撃し、それを助けるべく出兵した大国[[古代エジプト|エジプト]]の王[[ネコ2世]]を{{仮リンク|カルケミシュの戦い|en|Battle of Carchemish}}<ref>カルケミシュはパレスチナとエジプトの要衝である小村</ref>([[紀元前7世紀|紀元前606年]])で打ち破った。更にエジプトの影響下にある[[歴史的シリア|シリア]]の諸王国を次々と征服して領土を大幅に拡張した。
 
ネブカドネザル2世は新バビロニア王国建国者ナボポラッサルの息子としてB.C.630年頃に生まれた。ネブカドネザル2世は[[旧約聖書]]の中に「ネブカドネツァル」として現れることでも知られるネブカドネザル2世は、父王の治世中より軍を率い。B.C.607~B.C.606年に皇太子とし転戦[[アッシリア]]に遠征ていた。[[ハッラーン|ハラン]]にあった[[アッシリア]]の残存勢力を攻撃B.C.606~B.C.605年にそれを助けるべく出兵した大国[[古代エジプト|エジプト]]の王[[ネコ2世]]率いるエジプト軍に撃退されると、{{仮リンク|カルケミシュの戦い|en|Battle of Carchemish}}<ref>、父親に代わって軍の総裁となり、カルケミシュはパレ(現在のジュラーブルチナ)ハマトでエジプトの要衝である小村</ref>([[紀元前7世紀|紀元前606年]])で軍を打ち破った。更にエジプトの影響下にある[[歴史的シリア|シリア]]の諸王国大半次々と征服して領土を大幅に拡張制圧した([[紀元前7世紀|紀元前606年]])
[[紀元前7世紀|紀元前605年]][[8月15日]]父王ナボポラッサルが死去すると急遽[[バビロン]]へ帰還して王位を継ぎバビロニア王となった。彼が王となってすぐにエジプトは[[歴史的シリア|シリア地方]]への介入を再開し、また征服したシリア地方の諸王国でも各地で反乱の火の手があがった。これに対し[[紀元前6世紀|紀元前597年]]にはパレスティナにかろうじて存続していた[[ユダ王国]]に攻め入って、ヨヤキン王を首都[[バビロン]]に連行した。[[紀元前6世紀|紀元前595年]]には東に転じて[[エラム]]を攻撃し、かつて全[[オリエント]]を征服して覇を唱えたアッシリア帝国とほぼ同じ領域をエジプトを除き支配下に置いた。
 
[[紀元前7世紀|紀元前605年]][[8月15日]]父王ナボポラッサルが死去すると急遽[[バビロン]]へ帰還し、三週間で政権を握り、父の王位を継ぎバビロニア王となった。彼が王となってすぐ(B.C.601年)にエジプトは[[歴史的シリア|シリア地方]]とパレスチナへの介入を再開し[[ユダ王国]]、また征服したシリア地方の諸王国でも各地で反乱の火の手があがったが、ネブカドネザル2世はエジプトに大敗した。。これに対し[[紀元前6世紀|紀元前597年]]にはパレスティナにかろうじて存続していた[[ユダ王国]]を属国とした。また、イェルサレムに攻め入って、[[ヨヤキン王]]を首都[[バビロン]]に連行した(第一回バビロン捕囚)。[[紀元前6世紀|紀元前595年]]には東に転じて[[エラム]]を攻撃し、かつて全[[オリエント]]を征服して覇を唱えたアッシリア帝国とほぼ同じ領域をエジプトを除き支配下に置いた。
[[紀元前6世紀|紀元前589年]]にも再びエジプトが侵入し、ユダ王国もこれに乗じて再び反乱を起こしたために[[紀元前6世紀|紀元前587年]]に再び[[エルサレム]]を包囲し({{仮リンク|エルサレム包囲戦 (紀元前587年)|en|Siege of Jerusalem (587 BC)|label=エルサレム包囲戦}})、翌年陥落させ神殿を破壊した。ユダ王国は属州[[:en:Yehud (Babylonian province)|Yehud]]([[紀元前6世紀|紀元前586年]] - [[紀元前6世紀|紀元前539年]])として併合された。その間得た多くの捕虜は首都バビロンへ連行された。これを「[[バビロン捕囚]]」という。このことは[[旧約聖書]]、『[[列王記]]』下24:8-25:5にも記されている。同じく旧約聖書中の『[[ダニエル書]]』は彼によってバビロンへ連行された[[ユダヤ人]]たちの物語である。また[[フェニキア]]の[[テュロス]]にも軍を差し向け、13年間にもわたる包囲戦が行われたという。
 
[[紀元前6世紀|紀元前589年]]にも再びエジプトが侵入し、ユダ王国もこれに乗じて再び反乱を起こしたために[[紀元前6世紀|紀元前587年]]に再び[[エルサレム]]を包囲し({{仮リンク|エルサレム包囲戦 (紀元前587年)|en|Siege of Jerusalem (587 BC)|label=エルサレム包囲戦}})、翌年陥落させ神殿を破壊した。ユダ王国は属州[[:en:Yehud (Babylonian province)|Yehud]]([[紀元前6世紀|紀元前586年]] - [[紀元前6世紀|紀元前539年]])として併合された。その間得た多くの捕虜は首都バビロンへ連行された。これを「[[(第二回バビロン捕囚]]」という)。このことは[[旧約聖書]]、『[[列王記]]』下24:8-25:5にも記されている。同じく旧約聖書中の『[[ダニエル書]]』は彼によってバビロンへ連行された[[ユダヤ人]]たちの物語である。また[[フェニキア]]の[[テュロス]]にも軍を差し向け、13年間にもわたる包囲戦が行われたという。
 
彼の治世の後半は史料が乏しい。旧約聖書には彼が発狂したと述べられているが、信憑性の程は分からない。彼の死後、息子の[[アメル・マルドゥク]]が王位を継いだ。
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== 後世の作品 ==
 
*[[ジュゼッペ・ヴェルディ|ヴェルディ]]のオペラ『[[ナブッコ]]』はイタリア語でネブカドネザルの意。ダニエル書を素材にネブカドネザル2世をタイトルロールとしている。
 
== 脚注 ==
 
<references />
 
== 関連事項 ==
 
*[[新バビロニア]]
*[[ダニエル]]
*[[聖書の登場人物の一覧]]
 
 
{{先代次代|[[新バビロニア|バビロニア王]]|112代<br>紀元前605年 - 紀元前562年|[[ナボポラッサル]]|[[アメル・マルドゥク]]}}
 
{{DEFAULTSORT:ねふかとねさる2}}
[[Category:バビロニアの君主]]