「ジョセフ・マッカーシー」の版間の差分

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マッカーシー自身も演説へのメディアの大きな反応に驚き、そして絶え間なくその後告発、共産党員数の両方をコロコロと修正したが、それは彼のやり方の特徴的な側面だった。数日後[[ソルトレイクシティ]]において57人の数字を示し、そして[[2月20日]]の上院では81人と主張する、といった具合に。彼はこれら全ての例を議論したマラソンスピーチを行ったが、その根拠は希薄か、存在しないものだった。にも拘わらず、演説の衝撃は大きかった。上院は告発を調査するため{{仮リンク|ミラード・タイディングス|en|Millard Tydings}}を長とする委員会を招集し、これらは事実無根であることがそのうちに分かった。しかしマッカーシーのような有力な議員に対しては、所詮無力だった。彼は告発を少しだけ変え、そしてそれを上院や報道に対して示すのだった。
 
== 反共産主義者十字軍 ==
[[ファイル:MargaretChaseSmith.jpg|220px|サムネイル|チェイス上院議員<BR />名指しはしなかったもののマッカーシーの「赤狩り」を批判する「良心の宣言」を発表した]]
[[1950年]]から[[1953年]]の間マッカーシーは、政府が内部にいる共産主義者を扱うことに失敗しているという非難をし続けたが、一方で彼が一夜でスターダムにのしあがったことは、力ある国民的追随者とかなりの収入を得ることになった。彼の収入は上院の委員団により調査され、その結果、彼のキャンペーンにおける問題ある行動と財政的な不正行為が明らかとなったが、法律的行動に出るための根拠を見つけられなかった。マッカーシーは彼の事務所の調査員であるジーン・ケールと1953年[[9月29日]]に結婚した。
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彼の委員会は、[[下院非米活動委員会]]と上院内部安全小委員会とは異なって、政府機関に焦点を合わせた。それは最初「[[ボイス・オブ・アメリカ|アメリカの声]]」の[[官僚]]組織への調査を行い、そして国務省の海外情報図書館から親共産主義的文献と考えられるものを強制排除させた。そればかりか政府与党に属しているにも関わらず、政府内部における共産主義者が影響力を及ぼしていると非難を始め、アイゼンハワーの怒りを買うことになった。彼は今も続いている人気からマッカーシーに公然と反対しようとはしなかったが、しかし今やマッカーシーを危険なルーズ・キャノン(自分勝手で信頼できない人物)と考え、彼を影響力ある位置から引き離すために秘密裏に工作するなど距離を一層置く様になった。
 
それでもマッカーシーに対する支持は止まることを知らず、[[ジョンズ・ホプキンズ大学]]教授の[[オーエン・ラティモア]]を「合衆国におけるソビエトのNo.1スパイだ」として告発したばかりか、彼の前任上院議員だったラフォレット・ジュニアにまで調査の手を伸ばし結果的にラフォレット・ジュニアを自殺に追い込んでいる。
 
==失脚==