「ジョセフ・マッカーシー」の版間の差分

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[[1950年]]から[[1953年]]の間マッカーシーは、政府が内部にいる共産主義者を扱うことに失敗しているという非難をし続けたが、一方で彼が一夜でスターダムにのしあがったことは、力ある国民的追随者とかなりの収入を得ることになった。彼の収入は上院の委員団により調査され、その結果、彼のキャンペーンにおける問題ある行動と財政的な不正行為が明らかとなったが、法律的行動に出るための根拠を見つけられなかった。マッカーシーは彼の事務所の調査員であるジーン・ケールと1953年[[9月29日]]に結婚した。
 
[[1952年]]における共和党の選挙勝利([[1952年アメリカ合衆国大統領選挙|大統領選]]勝利は、20年ぶり)には彼の攻撃が助けとなった。敗北した民主党候補者の内、最低でも一人は、マッカーシーによる非難に原因の一端がある。選挙勝利後、党の指導者は彼の人気の大きさをリベラルな民主党員を攻撃するための武器と認め、彼を上院政府活動委員会常設調査小委員会の委員長に任命した。しかし彼が信頼できないところ、及び言い逃れしようとするところは、決して党(特に[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]大統領)に完全には信用されていないことを意味した。
 
彼の委員会は、[[下院非米活動委員会]]と上院内部安全小委員会とは異なって、政府機関に焦点を合わせた。それは最初「[[ボイス・オブ・アメリカ|アメリカの声]]」の[[官僚]]組織への調査を行い、そして国務省の海外情報図書館から親共産主義的文献と考えられるものを強制排除させた。そればかりか政府与党に属しているにも関わらず、政府内部における共産主義者が影響力を及ぼしていると非難を始め、アイゼンハワーの怒りを買うことになった。彼は今も続いている人気からマッカーシーに公然と反対しようとはしなかったが、しかし今やマッカーシーを危険なルーズ・キャノン(自分勝手で信頼できない人物)と考え、彼を影響力ある位置から引き離すために秘密裏に工作するなど距離を一層置く様になった。