「後水尾天皇」の版間の差分

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== 略歴 ==
[[ファイル:Callirgaphy by Emperor GoMizunoo.JPG|thumb|200px|後水尾天皇 雅歌 色紙]]
後陽成天皇はかねてから<!--[[豊臣秀吉]]の意向で儲君に立てられた-->第1皇子・良仁親王([[覚深入道親王]])を廃して、<!-- 秀吉の[[猶子]]でもあった -->弟宮の[[八条宮智仁親王]]を立てる事を望んでいた。だが、[[関ヶ原の戦い]]によって新たに権力の座を手に入れた[[徳川家康]]もまた[[皇位継承]]に介入し、良仁親王の[[出家]](皇位継承からの排除)は認めるものの、これに替わる次期天皇として嫡出男子<!--(母の[[近衛前子]]の父は[[近衛前久]]で猶父は豊臣秀吉。)-->であった第3皇子の政仁親王の擁立を求めた。最終的に後陽成天皇はこれを受け入れたものの、結果的には自己の希望に反して家康の意向によって立てられた政仁親王に対しても良仁親王と同様に冷淡な態度を取るようになった。
 
[[慶長]]16年([[1611年]])[[3月27日 (旧暦)|3月27日]]に後陽成天皇から譲位され践祚。[[4月12日 (旧暦)|4月12日]]に[[即位の礼]]を行う。だが、父・後陽成上皇との不仲はその後も続き、[[天海]]や[[板倉勝重]]の仲裁にも関わらず不仲は上皇の死まで続いた。