「朝山日乗」の版間の差分

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==人物==
彼の前半生については良く分かっていない。[[フロイス日本史]]によれば、次のような経歴であったとされる。
 
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彼には妻子があったが、貧乏のため彼女に離縁状を与えたのはそう幾年も前のことではなかった。ついで彼は兵士となり、その職にあって幾多の侵略とか殺人の罪を犯し、それらの犯罪による恐怖心から、衣服を変えはしたが習慣を変えようとはしなかった。そこで彼は羊の皮を着、僧侶となって国から国へと遍歴した。そして彼は[[尼子氏|尼子]]の国主に叛逆を働いたために、そこから山口の国(=[[周防国|周防]])に逃亡した。
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[[永禄]]11年([[1568年]])、[[織田信長]]が上洛すると三好三人衆は退却し、日乗は自由の身となった。日乗の罪状は[[勅命]]によって許され、4月16日に参内して朝廷に物を献上したという<ref>「[[御湯殿上日記]]」「[[言継卿記]]」</ref>。7月10日には[[近衛前久]]邸で法華経の講釈をしている<ref>言継卿記</ref>。これを機に日乗は信長に接近していく。
 
永禄12年1([[1561年]])1月、[[征夷大将軍]]となった[[足利義昭]]は、[[毛利元就]]と[[大友義鎮|大友宗麟]]を和睦させようとし、松永久秀もこの動きに協力する。日乗は久秀の使者として[[吉川元春]]の元に赴いている<ref>吉川家文書、言継卿記</ref>。この春、信長によって[[村井貞勝]]とともに[[皇居]]の修理を命じられているが<ref>信長公記 巻2</ref>、フロイスによれば日乗はこの頃から「すでにあらゆる諸貴人に知られていた」という。
 
4月19日、日乗は信長に[[キリスト教]][[宣教師]]の追放を進言した。だがこれに先立つ4月8日、信長はすでに宣教師に滞在と布教を許可した[[朱印状]]を与えており、却下された。
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翌4月21日、日乗は岐阜に帰ろうとする信長に再び宣教師の追放を進言したが、これも却下された。
 
また[[キリシタン]]であった[[和田惟政]]を陥れようとして失敗し、[[天正]]元年([[1573年]])頃に信長の寵を失って失脚した。
 
子孫は[[九条家]][[諸大夫]]となる。儒学者の[[朝山意林庵]]は孫。