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[[File:Kanose Dam.jpg|thumb|250px|阿賀野川水系初の発電用ダム・[[鹿瀬ダム]]。]]
[[Image:Kanose power station.jpg||thumb|250px|東信電気によって[[1928年]](昭和3年)に運転を開始した鹿瀬発電所。]]
只見川において、初めて水力発電事業が計画されたのは[[1910年]](明治43年)のことであった。岩代水力電気発起人の[[大田黒重五郎]]らが只見川と伊南川に各一箇所の[[水路式発電所]]を計画し、河川管理者である[[宮田光雄 (内務官僚)|宮田光雄]][[福島県知事一覧|福島県知事]]<ref>当時、河川管理に関する[[許認可]]権は[[知事]]が有していた。</ref> に申請したのが最初とされる。これ以降さまざまな電力会社が只見川や阿賀野川、沼沢湖の発電用[[水利権]]取得申請を行った。数多の会社が水利権申請を行ったが、最初に福島県知事の許認可を受けたのは現在の[[耶麻郡]][[西会津町]]を地盤とした'''野沢電気株式会社'''<ref>その後幾多の変遷を経て[[1931年]](昭和6年)に[[東京電燈]]に合併する。[[東京電力]]の前身の一つ。</ref> であった。[[1916年]](大正5年)創立のこの会社は[[資本金]]を増額するという条件で只見川の水利権を[[1919年]](大正8年)に獲得した。この結果会社の[[株式]]はプレミアムが付くほど高騰し、結果条件として掲げていた資本金1千万円(当時の価格)を集めることが出来た。それまで「野沢電気の電灯は夜にちらりと光るだけ」と地元民から揶揄(やゆ)されていた貧弱な電力会社が、一躍時代の寵児となったのである。
 
この水利権獲得を機に野沢電気は「'''只見川水力電気株式会社'''」と改称し、現在の大沼郡金山町にある上田発電所付近を取水口として、トンネルを経て西会津町の阿賀野川に出力1万[[ワット|キロワット]]の[[水路式発電所]]・'''野沢発電所'''を建設するという計画を立てた。ところが許可の際に福島県内務部長から効率的な水力発電方法に改善するよう指示を受け、その計画変更許可申請書を提出するように命令が出されていたにもかかわらず、只見川水力電気は定められた期限までに申請書を提出しなかったので折角取得した水利権を喪失するという失態を犯した。空白となった水利権に対して再度多くの電力会社から取得の申請が出されたが、最終的に'''東北水電株式会社'''が只見川水力電気を合併して有利な方法による水力発電計画を提示したことにより水利権を獲得した。東北水電は水利権を獲得すると「'''東北電力'''<ref>現在の[[東北電力]]とは無関係。後に東京電燈と合併する。東京電力の前身の一つ。</ref>'''株式会社'''」を創立。再度野沢発電所の計画に乗り出したのである。
 
只見川下流での水利権獲得競争が始まった頃、源流である尾瀬沼についても水利権申請が行われていた。'''関東水電株式会社'''<ref>後に東京電燈と合併する。東京電力の前身の一つ。</ref> は1919年[[8月14日]]、尾瀬沼に[[ダム式発電所]]を建設して利根川水系の[[片品川]]に導水し、水力発電を行うことを利根川の河川管理者であった[[群馬県知事]]に申請していた。この申請は当時の[[原内閣]]の[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]であった[[床次竹二郎]]の強力な後援もあって関東水電に水利権の使用許可が下りた。ここに'''[[尾瀬原ダム計画]]'''が開始されたが宮田福島県知事は[[1921年]](大正10年)に尾瀬沼の関東水電への水利権取得は容認できないとして反対を表明した。その後関東水電と群馬県の動きに対抗すべく尾瀬沼の発電用水利権を14件認可したが、[[内務省 (日本)|内務省]]と[[逓信省]]は関東水電の計画を優先し福島県が許可した水利権使用を全て却下した。この間、[[平野長蔵]]が尾瀬原ダム建設に反対するため、単独で尾瀬に定住して抵抗の姿勢を表し、原内閣の後を継いだ[[加藤友三郎内閣]]の[[水野錬太郎]]内務大臣に計画の中止を求める書簡を送っている。
 
一方下流の阿賀野川については[[立憲政友会]]所属で'''阿賀川水力電気'''発起人の一人であった吉野周太郎が[[1918年]](大正7年)に水利権使用申請許可を宮田福島県知事に申請したのが最初である。だが政友会と対立する[[憲政会]]所属の大嶋要三が同志19名と語らい'''岩越電力株式会社'''を組織して同じく阿賀野川の水利権使用申請を申請したのである。政友会と憲政会の代理戦争の様相を呈した阿賀野川の水力発電開発は同年12月に政友会所属でもあった宮田知事が阿賀川水力電気に水利権の使用許可を与える旨内諾した。だが宮田知事は内諾後すぐに転出、水利権使用許可申請は6年間保留状態であった。6年後福島県知事が[[川淵洽馬]]に替わると岩越電力は再度水利権の申請を行ったが、この時川淵知事は「上流が政友会なら下流は憲政会の方が公平を期すことが出来る」として只見川合流点より下流の阿賀野川の水利権を福島県側上流部は阿賀川水力電気に、新潟県側下流部は岩越電力に与えた。岩越電力は水利権を取得後の[[1927年]](昭和2年)、'''東信電気株式会社'''に買収され、現在の新潟県[[東蒲原郡]][[阿賀町]]鹿瀬にダム式発電所を建設する計画を立てた。これが'''[[鹿瀬ダム]]'''であり、同年に着工した。この鹿瀬ダムが'''阿賀野川・只見川流域における最初の[[電力会社管理ダム|発電用ダム]]'''であり、以降只見川、阿賀野川にもダム建設ブームが到来するのである。
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只見川の水力発電事業は長大なトンネルによる水路式発電所・野沢発電所(出力10万キロワットに増強)が東北電力によって進められていた。だが東北電力は尾瀬原ダム計画を進めていた関東水電と共に'''信越電力株式会社'''に[[1928年]](昭和3年)[[吸収合併]]されていた。その信越電力も合併後すぐに名称を'''[[東京発電|東京発電株式会社]]'''に改め、さらに程なくして'''[[東京電燈|東京電燈株式会社]]'''と合併する。実に目まぐるしい電力会社の変遷はあったが水力発電事業はそのまま進められ、只見川流域の水利権については尾瀬沼から阿賀野川合流点まで事実上東京電燈が一手に握ることになった。東京電燈は[[猪苗代湖]]や裏磐梯三湖([[桧原湖]]・[[小野川湖]]・[[秋元湖]])の水力発電事業を行っていた猪苗代水力電気も合併しており、結果として只見川合流点より上流の阿賀野川水系はほぼ東京電燈によって開発されることになったのである。
 
只見川流域の開発では野沢発電所計画がそのまま継続していたが、着工までには至らなかった。それは当時[[世界恐慌]]のあおりを受けて日本の経済界も深刻な[[不況]]に陥り、それに伴って電力需要が低下した反面、電力開発は年々増強の一途をたどり電力過剰状態になったためである。東京電燈は野沢発電所計画の他に[[沼沢湖|沼沢沼]]<ref>当時[[沼沢湖]]は沼沢沼と呼ばれていた。</ref> を利用した[[揚水発電]]計画を申請していたが、電力過剰に対応するため二事業の一時休止を[[1929年]](昭和4年)に申請、内諾を受け保留した。だが1929年を境に電力需要がにわかに増加に転じたことから[[1933年]](昭和8年)に再開した。だが野沢発電所計画は長大なトンネル掘削は不経済であることから計画の変更を余儀なくされており、捗らないままであった。だがその他の只見川流域における開発は計画が進捗し、[[1925年]](大正15年)から1927年に掛けて'''沼沢沼揚水発電計画'''を始め只見川第一から第五発電所、白戸川第一・第二発電所、袖沢発電所、叶津川発電所の10地点の水力発電所計画を申請し、福島県の許可を得た。これにより野沢発電所を含めた11発電所の総出力は34万2,000キロワットにも及んだ。
 
一方尾瀬原ダム計画は当初尾瀬沼にダムサイトを計画していたが、[[1934年]](昭和9年)[[日光国立公園]]に尾瀬が指定されたことから建設地点を変更し、尾瀬ヶ原出口に高さ85メートルの[[ロックフィルダム]]を建設し、[[ダム#諸元|有効貯水容量]]3億3,000万立方メートルの巨大な[[人造湖]]を誕生させる壮大な計画に変わっていった。ダムによって形成される尾瀬原貯水池の水は利根川最上流部に建設が予定されていた[[矢木沢ダム]]との間で揚水発電を行い、'''尾瀬第一・尾瀬第二発電所'''によってそれぞれ17万9,000キロワットと18万5,000キロワットの発電を行う方向性が固まった。しかし福島県は特に[[福島県議会]]が利根川の導水に猛反発し、これに押された県当局は以後群馬県との間で分水を巡り争うことになる。この問題について東京電燈は群馬県と福島県の間で板挟みとなっていた。
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日本発送電は発足後の[[1940年]](昭和15年)[[2月20日]]、監督官庁である[[逓信省]]電気庁を通じ[[米内内閣]]より'''宮下発電所'''建設事業着手の指示を受けた<ref>日本発送電は[[特殊法人]]であるが最高意思決定機関は会社には無く政府にあった。このため政府から指示を受けて事業を行う。</ref>。この宮下発電所は沼沢湖の下を流れる只見川に'''宮下ダム'''を建設し、最大6万4,200キロワットを発電するというものである。だがこの宮下発電所を建設すると東京電燈が保持していた野沢発電所及び沼沢沼揚水発電所の水利権と競合する。そこで日本発送電株式会社法第24条に基づいて東京電燈が保有していた水利権を[[行政処分]]にて取り消し、宮下発電所の工事に着手したのである。ここに只見川最初の水力発電計画となった野沢発電所計画は潰えるが、元々費用対効果の面で非効率的な発電所であり、仮に完成していれば宮下発電所より下流の発電所が建設できない可能性があった。その意味では長期的に見た場合野沢計画の中止は只見川の水力発電計画にはプラスに働いたのである。
 
[[1941年]](昭和16年)に始まった宮下発電所建設事業は困難の連続であった。まず冬季の豪雪と夏季の豪雨が工事の進捗を阻み、続いて戦局悪化に伴う物資の欠乏で[[放流 (ダム)|放流]]用の[[水門|ゲート]]の搬入もままならなかったばかりか、次第にダム建設のための物資も枯渇する有様となった。こうした状況にもかかわらず日本発送電の監督官庁であった[[軍需省]]電気局<ref>[[1943年]](昭和18年)の[[東條内閣]]において軍需省が発足し、電気事業はその監督下に置かれることになり、日本発送電もその監督下に置かれた。</ref> は[[1945年]](昭和20年)までの完成を厳命しており、[[中国人]]労働者の[[強制労働]]などで工事を進め[[1944年]](昭和19年)にはダム湖への湛水(たんすい)が開始された。だが完成予定の1945年日本は終戦を迎え、一時工事は中断する。しかし今度は戦後復興のための事業に変化し工事は再開され、物資と電力が極端に欠乏する中で[[1946年]](昭和21年)に発電所第1号機が運転を開始、1万3,800キロワットの電力を生み出すことができた。そして[[1949年]](昭和24年)には当初の計画を半減し認可出力3万6,000キロワットとして事業を完成させた。これは阿賀野川に建設されていた山郷発電所でも同様だった。
 
一方福島県が頑強に反対していた尾瀬原ダムの利根川への分水計画であるが、1944年[[9月16日]]に[[荒木万寿夫]]軍需省電気局長は日本発送電に対し「尾瀬沼から利根川水系片品川への流域変更(分水)による発電所出力増強を直ちに図ること」という指令を下した。そして日本発送電から[[石井英之助 (農林官僚)|石井英之助]]群馬県知事と[[石井政一]]福島県知事に対し水利権使用の早急な許可を求めた。福島県は当初より分水反対の姿勢を崩していなかったが、軍部に逆らうことの愚を悟り、やむなく許認可を下した。日本発送電が尾瀬沼の分水を「緊急措置」として使用し、戦争終了後は原状復帰すると確約したことも、福島県の認可を引き出す要因になった。翌年に戦争は終了し本来なら原状復帰されなければならないところ、軍需省廃止後に電力行政を継承した[[商工省]]<ref>[[経済産業省]]の前身。</ref> は「国土復興のため」として尾瀬沼から片品川への分水を継続するよう日本発送電に指示した。福島県としては当初の約束を反故にされた形になるが、今度は国土復興という大義名分には逆らえずこれを認めた。その結果尾瀬沼から[[三平峠]]をトンネルで越えて片品川へ導水する事業が1949年完成する。
 
=== 戦後 ===
[[Image:Lake Numazawako survey 1976.jpg|250px|thumb|沼沢湖空撮<ref name="国土航空写真">{{国土航空写真}}(1976年度撮影)</ref><br />中央が[[沼沢湖]]、右上が[[只見川]](宮下ダム湖)。右端中央の只見川沿いにある白い建物が沼沢沼発電所。]]
[[Image:Okutadami Dam 001.jpg|thumb|250px|[[奥只見ダム]]。日本屈指の規模を誇る巨大ダム。[[1962年]](昭和37年)完成。]]
[[Image:Tagokura-494-r1.JPG|thumb|250px|[[田子倉ダム]]。奥只見ダムと並ぶ只見川流域最大級のダム。[[1959年]](昭和34年)完成。]]
宮下発電所の建設を進めていた日本発送電東北支店は、1946年に只見川・阿賀野川の総合的な水力発電計画を企図し政府の指示を得ずに自主的な調査を開始した。南会津郡伊北村<ref>現在の[[南会津郡]][[只見町]]伊北。</ref> に調査所を設置し23名にて只見川の気象・水文などを調査した。さらに翌[[1947年]](昭和22年)には商工省が'''只見川・尾瀬原・利根川総合開発計画'''を策定し只見川流域の調査を委託。その結果只見川調査所も上流部と下流部に分離・拡大して調査を続行した。[[1948年]](昭和23年)10月には「東北地方電力復興計画案」をまとめ[[北上川]]、[[十和田湖]]、[[田沢湖]]、猪苗代湖と共に只見川が重要な開発地点にあげられ、特に只見川は復興計画にある水力発電計画の87[[パーセント]]に及ぶ約247万キロワットを新規に開発できると報告した。この間只見川の水力発電計画の骨子として1947年3月に「'''只見川筋水力開発計画概要'''」が発表された。
 
これによれば只見川と阿賀野川に連続して15箇所のダム式発電所を建設、既設5発電所<ref>鹿瀬・豊実・山郷・新郷・宮下の5発電所。</ref> の出力を増強させることで新規に増加する発電出力は235万キロワットに及び、年間増加発電量は55億[[キロワット時]]にも上るとしてその開発の有用性を主張した。この中で根幹事業として只見川最上流部に4箇所、伊南川に1箇所の巨大ダムを建設し大容量貯水池を建設するとした。ここにおいて初めて'''[[奥只見ダム]]'''と'''[[田子倉ダム]]'''の二大ダム計画が登場した。また尾瀬原ダムはこの計画で揚水発電から一般水力発電に修正され、利根川の分水も無くなりダムの規模も縮小された。この案は後に「'''只見川本流案'''」(詳細は後述)となる。「本流案」は只見川・尾瀬原・利根川総合開発計画案を審議する「只見川・尾瀬沼・利根川総合開発調査審議会」に1948年提示されたが、同時期新潟県は只見川の豊富な水量を[[信濃川]]水系に導水して[[灌漑]](かんがい)に役立てようと考え、「'''只見川分流案'''」(詳細は後述)を引っさげ、福島県と対立した。また「尾瀬分水案」を巡って福島県は群馬県と争うなど、只見川を巡って河川管理者である福島・新潟・群馬三県が争う三つ巴の構図が生まれた。
 
日本発送電はその第一歩として宮下発電所建設の際に中止された'''沼沢沼揚水発電所'''計画を復活させ、1949年福島県に水利権申請を行った。ところが日本発送電は1948年に[[連合国軍最高司令官総司令部]] (GHQ) より戦時体制に協力した[[独占資本]]であるとして[[過度経済力集中排除法]]の指定を受けた。以後松永安左エ門を委員長とする電気事業再編成審査委員会の検討を経て[[1951年]](昭和26年)[[ポツダム政令]]に基づく[[日本発送電#電気事業再編成令|電気事業再編成令]]が発令され、日本発送電は全国九電力会社に[[会社分割|分割]]・[[民営化]]された。この中で東北支店は'''[[東北電力]]'''に、関東支店は'''[[東京電力]]'''に改組・発足する。東京電力は東京電燈やそれ以前に合併した電力会社の流れを汲み、只見川に深く関与していた。一方東北電力は戦後只見川の開発調査に携わり、両社は只見川の魅力的な電力資源を巡り対立を深める。
 
一方政府は全国で頻発する[[水害]]に対処すべく1949年に[[経済安定本部]]主導で「河川改訂改修計画」を策定し、全国の主要6水系<ref>[[北上川]]、[[江合川]]・[[鳴瀬川]]、[[利根川]]、[[木曽川]]、[[淀川]]、[[吉野川]]、[[筑後川]]の6水系。</ref> において[[多目的ダム]]を柱とする[[治水]]計画を立てていたが、翌[[1950年]](昭和25年)には治水に加えて水力発電や灌漑を目的として[[河川総合開発事業|河川総合開発]]を広域的に実施し、地域開発を強力に推進して国土復興を行う目的で[[第3次吉田内閣]]は'''[[国土総合開発法]]'''を成立させた。この中で全国22地域<ref>詳細は[[河川総合開発事業#特定地域総合開発計画一覧]]を参照。</ref> が総合開発を重点的に実施する特定地域に指定され、その基本計画である'''特定地域総合開発計画'''が策定された。東北地方では[[北上特定地域総合開発計画]]([[岩手県]]・[[宮城県]])を始め十和田[[岩木川]]([[青森県]])、北奥羽(青森県・岩手県・[[秋田県]])、[[仙塩]](宮城県)、阿仁田沢(秋田県)、[[最上川#最上特定地域総合開発計画|最上]]([[山形県]])が指定されたが、福島県では只見川の電源開発事業が重点開発地域に指定され、関東と東北に対し広域的な電力供給を行うため[[1951年]](昭和26年)[[12月]]、'''只見特定地域総合開発計画'''が発表された。さらに翌[[1952年]](昭和27年)には電源開発促進法が成立し、未だ経営基盤が脆弱な電力会社の電力新規開発を強化するため[[高碕達之助]]を総裁に'''[[電源開発]]株式会社'''が発足し、只見川の開発に乗り出すことになった。これに伴い[[1953年]](昭和28年)[[8月5日]]、[[総理府]]告示第155号として電源開発の事業として只見川電源開発計画が公表され、[[官報]]に掲載されたのである。
 
只見特定地域総合開発計画の発表、さらに電源開発の参入により、只見川と阿賀野川は日本を代表する[[電源地帯]]に成長する第一歩を踏み出したのである。
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!認可出力<br/>(kW)
!ダム<br/>高さ<br/>(m)
!貯水容量<br/>(千m&sup2;²)
!備考
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!認可出力<br/>(kW)
!ダム<br/>高さ<br/>(m)
!貯水容量<br/>(千m&sup2;²)
!備考
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'''尾瀬分水案'''(利根川分流案)とは日発関東支店の地盤を継承した東京電力と群馬県が推した計画案である。最大の特徴は尾瀬原ダムの水を'''利根川水系に分水'''し、水力発電を行う計画になっていることである。
 
1919年に関東水電が提示した原案は逓信省が示した案を[[東京電燈]]が受容することでほぼ骨格が固まっていた。この中で尾瀬原ダムの規模は高さ85メートル、貯水容量3億3,000万立方メートルと他の計画案に比べて規模が最大になっている。そして尾瀬原ダムの水は尾瀬第一・第二発電所によって利根川との間で揚水発電を行う。この当時群馬県は利根川上流部に'''[[矢木沢ダム|矢木沢]]'''・'''[[須田貝ダム|楢俣]]'''<ref>[[須田貝ダム]]。[[1955年]](昭和30年)に完成したが当時は'''楢俣ダム'''という名称であった。[[奈良俣ダム]]が[[1990年]](平成2年)完成した時に混同を避けるため現在の名称に改めた。</ref>・'''[[藤原ダム|幸知]]'''<ref>[[藤原ダム]]の原案。</ref> の三ダムを建設して水力発電を行う計画であったが、東京電燈はこれと整合性を取り矢木沢ダムを下部調整池とした揚水発電を行うとした。これによって合計36万4,000キロワットの発電を行うほか、利根川下流にある既設の水力発電所の出力増強を図る計画である。計画全体における認可出力の合計は'''67万7,000キロワット'''となる。
 
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:small;"
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!認可出力<br/>(kW)
!ダム<br/>高さ<br/>(m)
!有効<br/>貯水容量<br/>(千m&sup2;²)
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|只見川||尾瀬第一||align="right"|179,000||rowspan="2" align="right"|85.0||rowspan="2" align="right"|330,000
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|}
 
最大の貯水池となる'''阿賀野川貯水池'''は現在の[[東蒲原郡]][[阿賀町]]と[[阿賀野市]]境界付近に建設され、[[ダム#諸元|湛水面積]]は[[奥只見ダム#奥只見湖|奥只見湖]]の約6~7倍に相当しその上流端は只見川の合流点を越えて[[会津坂下町]]と[[喜多方市]]の境、濁川合流点付近にまで及ぶ。阿賀野川単独では貯水池が形成できないため、阿賀野川支流の早出川にもダムを建設<ref>建設地点は[[新潟県]][[五泉市]]にある早出川ダム付近である。</ref> し二箇所のダムで貯水を行う。ここで出力74万キロワットの発電を行う。また只見川に建設される'''只見貯水池'''は現在の滝ダム付近に計画されたが、その上流端は現在の[[田子倉ダム#田子倉湖|田子倉湖]]上流端及び南会津郡[[南会津町]]南郷付近にまで及び、貯水池規模も阿賀野川貯水池とほぼ同じである。この他信濃川は小千谷市と[[長岡市]]境付近、阿武隈川は[[西白河郡]][[中島村]]滑津付近に大規模ダムが建設される計画であった。
 
しかしこの計画が実行されると、既に建設されていた宮下、新郷、山郷、豊実、鹿瀬の各発電所が完全に水没するほか、水没により移転を余儀なくされる住民数が膨大になることが予想された。
 
=== OCIによる最終決定 ===
[[Image:Otori Dam survey 1976.jpg|250px|thumb|大鳥ダムと大鳥発電所空撮<ref>{{ name="国土航空写真}}(1976年度撮影)<"/ref><br />[[1964年]](昭和39年)完成。前沢ダム計画を縮小・変更して建設された。只見川唯一の[[重力式アーチダム]]。]]
[[ファイル:20060617奥只見ダム大鳥ダム.jpg|250px|thumb|大鳥ダム湖(右下)と奥只見湖空撮]]
各計画案が出揃った所で、電気事業再編成令と同時に施行された[[公益事業令]]に基づき組織された[[公益事業委員会]]は[[1951年]](昭和26年''')、[[アメリカ合衆国]]海外技術調査団'''(Overseas Consultants Inc.)すなわち'''OCI'''に只見特定地域総合開発計画案の策定を依頼。依頼を受けたOCIは来日後出揃った各計画案の比較に入った。そして翌[[1952年]](昭和27年)5月に、検討の結果多少の修正を要するとしながらも東北電力と福島県が推す「只見川本流案」が最も優れているとの結論を出した。
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一方本流案は合理的に開発が可能であること、何れの計画案と比べても事業費が割安で電気料金への影響も抑制できること、地質・気象などの基礎資料が完備していることなどを挙げ、内川ダムの位置を変更し規模を高さ119.0メートル・貯水容量3億2,000万立方メートルに修正、前沢ダム・前沢発電所計画は経済性の面で分割し前沢ダム上流に'''大鳥ダム・大鳥発電所'''を建設。さらに尾瀬原ダム・発電所については二段階に分けて建設し、第一段階は高さ50メートル・貯水容量を1億2,500万立方メートルに抑え、その後の電力需要に応じてダムのかさ上げを行い最終的に高さ85メートル・総貯水容量6億8,000万立方メートルにして利根川への分水と大津岐ダムを下部調整池とした揚水発電を行うとするとした以外は概ね理想的であるとして本流案を支持した。政府はこの答申に沿った形で只見川の電力開発を行うことを決定した。OCIによる修正の結果総出力は'''193万キロワット'''になった。
 
またOCIはダム技術の面においても勧告を行った。OCIは只見川のほか日本各地のダム計画にも勧告・助言を行っており、[[宮崎県]]の[[上椎葉ダム]]([[耳川]])を[[アーチ式コンクリートダム]]に変更させ技術的な助言を行うなど日本の土木技術にも影響を与えた。OCIは只見川のダム計画についても「低廉な電気料金の維持」という前提で計画を立案する必要から、経済性追求の観点で可能な限り[[コンクリート]]量を節減できるアーチダムを採用させようとした。だがアーチダム建設の絶対条件である堅固な両側[[岩盤]]の存在<ref>アーチダムは堅固な両側岩盤に[[水圧]]を分散させることで安定性を保つメカニズムを持つ。これが欠けると岩盤が水圧に耐え切れず破壊され、ダムの決壊を招く。その代表例が[[1959年]](昭和34年)[[フランス]]で発生したマルパッセダム決壊事故である。</ref> が計画されたダム地点では得られず、断念する。しかし只見川・阿賀野川の莫大な水量を制御するため、そのほとんどにおいて[[水圧]]に対し最も安定性の高い'''[[重力式コンクリートダム]]'''が採用された<ref>例外は[[重力式アーチダム]]が採用された大鳥ダム、[[ロックフィルダム]]が採用された只見ダムである。</ref>。一方放流用[[水門|ゲート]]については戦前建設されたダムのようにゲートを多数並べて水量を調節する方法から、少数であるが大型のゲートを使用することでゲート設置費用の縮減を図ろうとした。この勧告は既に[[岐阜県]]の[[丸山ダム]]([[木曽川]])で採用されていたが、只見川においても採用された。これにより鹿瀬から宮下まで戦前に計画されたダムと比べ、戦後に建設されたダムについては揚川ダムを除き多くても8門までのゲート数に減らし、工事費節減に寄与している。
 
==== OCIが勧告した修正案 ====
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!ダム<br/>高さ<br/>(m)
!型式
!貯水容量<br/>(千m&sup2;²)
!勧告内容
|-
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=== 尾瀬分水案の棚上げ ===
なお、尾瀬分水案についてOCIは将来的には経済性に優れる計画案であるとしたものの、本流案に比べて現時点では経済性に劣るとして却下した。だがこの頃尾瀬分水案は事実上凍結に近い状態に陥っていた。それは1949年に[[建設省]]治水調査会が経済安定本部の指示を受けて策定した「利根川改訂改修計画」において、尾瀬原ダムの下部調整池として利用する予定であった矢木沢ダムが治水目的に利用されることが決定したためである。1947年の[[カスリーン台風]]による利根川決壊は首都・東京を水没させる非常事態になり、利根川の治水が河川行政上最大の課題になったためであり、治水を優先させるという政府方針によって矢木沢ダムは治水用に変更された。これにより尾瀬第一・第二発電所計画は白紙となり一旦凍結とした。また[[国立公園]]を管轄する[[厚生省]]<ref>現在の[[厚生労働省]]。この当時は国立公園を管轄していた。</ref> や[[文部省]]、日本自然保護協会などが尾瀬原ダム計画を「貴重な自然を破壊する」として反対運動を繰り広げていたのも背景にあった。結局、尾瀬分水案は1953年に棚上げされる。
 
== 諸問題 ==
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OCIの勧告で「只見川本流案」による開発が決定した後、東京電力は前身である東京電燈が保有していた只見川の水利権を行使すべく、1952年[[6月30日]]に'''[[本名ダム|本名(ほんな)発電所]]'''と'''上田(うわだ)発電所'''の水利権使用許可を大竹福島県知事に申請した。ところが大竹知事は「両発電所の水利権は東北電力に認める」として東京電力の申請を却下、河川行政を司る[[野田卯一]][[建設大臣]]と電力行政を司る[[池田勇人]][[通商産業大臣]]に[[閣議]]で東北電力への水利権使用許可を認めるように働きかけた。8月には閣議でこれが承認され、建設・通商産業両省から東京電力に対して水利権の失効を通達。大竹知事はこれを受けて東北電力に両発電所の水利権使用を許可した。背景には「本流案」決定後も「分流案」の優位性を訴え活発な工作を続ける新潟県に対し、「本流案」に基づいた開発を既成事実化するために早期の着工を進めようとした福島県当局の思惑があった。その中で早期着工を進めるには「本流案」を共に推した東北電力の方が円滑に開発を行う上で好都合という理由が、大竹知事の判断につながったのである。
 
これに納得の行かない東京電力は[[8月16日]]に[[福島地方裁判所]]に「水利権使用許可取消処分の取消」と「東北電力への水利権使用許可の執行停止」を求めて[[行政訴訟]]を起こした。しかし[[8月28日]]吉田首相は「執行停止されれば只見川の電源開発計画に重大な支障を及ぼす」として[[行政事件特例法]]を行使し「異議申立」を福島地裁に申し立てた。これは[[9月11日]]に認められ東京電力の「執行停止」申請は却下された。この一連の動きに対し12月の[[特別国会]][[衆議院]][[予算委員会]]で水利権問題が議論された。東京電力から東北電力へ水利権が変更された一連の行為が不明朗であり、背後に東北電力会長・[[白洲次郎]]の策謀があるのではないかという疑問が呈された。白洲は吉田首相の側近であり、こうした立場を利用し福島県に圧力を掛けると同時に、吉田首相など関係閣僚に便宜を図るよう働きかけを行ったのではないかという疑惑が持たれたのである。特にこの問題を追及したのは反・吉田の態度を取る[[改進党]]所属の[[栗田英男]]と新潟県選出の自由党議員・[[塚田十一郎]]<ref>後の[[新潟県知事]]。</ref> で、栗田は国会内に「吉田と白洲の不透明な関係」に関するビラを撒くなど特に熱心であった。
 
この後衆議院で[[参考人|参考人招致]]が行われ、大竹知事や東北・東京両電力の社長、野田卯一などが参考人として答弁を行い、席上大竹知事は拙速な行為について遺憾の意を表したが白洲からの圧力は否定した。[[通商産業省]]は9月12日に[[仙台市]]で関係する当事者・利害関係者を集めて聴聞会を開催し、両発電所の所属について聴聞を行った。この中で東北地方六県の知事・県議会・[[商工会議所]]、仙台市長・市議会、東北地方に工場を有する企業そして只見川流域住民代表は東北電力を支持し、京浜工業地帯に工場を持つ企業204社および[[神奈川県]]、群馬県、そして「本流案」の既成事実化を避けたい新潟県は東京電力を支持。膨大な只見川の電力を巡りこの問題は東北地方対[[関東地方]]の対立にまで発展した。行政訴訟も2年に及ぶ長期となり、水利権問題は泥沼の展開を見せ新聞紙上を連日にぎわせた。
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田子倉ダムの場合、ダム建設によって田子倉集落の50[[戸]]が水没することになった。この田子倉は福島県下でも生活水準が極めて高い地域であり、[[会津若松市]]よりも高かった。[[電話]]が50戸中10戸、[[ラジオ]]は全戸所有していた。また進学率も高く[[東京大学]]に入学した住民もいた。こうしたことから反対運動は熾烈であり、加えて当時[[レッド・パージ]]によって非合法化されていた[[日本共産党]]が思想的扇動を行うなど補償交渉は難航を極めた。この補償問題に正面から対峙したのは大竹福島県知事と電源開発田子倉建設所長の'''北松友義'''であった。大竹知事は直ちに地元に入り住民の説得に当たり、福島県議会による[[土地収用法]]による強制収用勧告にも否定的であった。こうした態度に50戸中45戸が1954年までに補償基準に妥結したが、残る5名は共産党の支援を受けながら抵抗を強めた。北松はこれら反対派5名に日参して説得に当たるが住民からは「只見川の鬼」と罵倒され、[[屎尿]]や石を投げつけられたという。
 
父祖伝来の地を失う5名も必死で妥協点を見出すべく大竹知事に直接掛け合い、大竹知事は電源開発が提示した補償基準での妥結を認めた。ところがこの補償金額が当時のダム補償金相場に比べ大きく上回っており、ダム事業への影響が多大だとして建設省と通商産業省が猛反発した。結局相場通りの補償額に落とさざるを得なかったが住民は再び態度を硬化。さらに全国のダム建設予定地で補償金の増額を求めて事態が紛糾するケースが相次いだ。これを「'''[[田子倉ダム#田子倉ダム補償事件|田子倉ダム補償事件]]'''」と呼ぶ。しかし住民も次第に共産党主導の反対運動に疲弊し、[[日本農民組合]]や[[日本社会党]]<ref>共産党と同じ[[革新]]政党であったが、この開発計画には賛成の立場を表明していた。</ref> 福島県連に仲介を依頼。共産党に発覚しないよう極秘裏に[[藤井崇治]]電源開発総裁や福島県幹部との最終交渉が持たれ、[[1956年]](昭和31年)[[7月25日]]に大竹知事との東京会談で最後の5戸も妥結した。この間北松は激務が祟り眼を患い退職、住民も疲弊するなど共産党による工作は地元に何の益ももたらさなかった。
 
一方滝ダムでも補償交渉が難航したが、特に問題となったのは「'''新戸'''」と呼ばれる住民であった。ダムによって水没する住民は177戸であったが、地元に縁もゆかりもない外来者がダム建設決定後の[[1957年]](昭和32年)頃より補償金目当てに続々と転入し、[[バラック]]小屋を建てた。その数は65戸・84棟に及び「住民」の中には[[暴力団]]員や[[韓国人]]もいた。補償交渉は最終的に大竹福島県知事の斡旋もあって、県に一任するということで大半は決定したが「新戸」の住民は補償金の吊り上げを目論み最後まで抵抗。最終的に2戸が土地収用法による強制収用を受けた。こうした補償金目当ての「新戸」問題は[[北山川]]の[[七色ダム]]・小森ダム([[三重県]]・[[和歌山県]])でも問題になったが、土地収用法による規制強化によって現在は見ることがない。
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なお、只見川最大の支流である伊南川流域については計画が頓挫した。舘岩川との合流点下流に建設が予定されていた'''内川ダム・内川発電所計画'''であるが、基礎岩盤が思った以上に悪く高さ119メートル・貯水容量3億2,000万立方メートルの巨大ダムを建設するには不安が生じたことや、水没物件が319戸と本計画中最大となり、交渉の難航が予想されるという理由から建設を断念。これに伴い内川ダムからトンネルで導水して8万キロワットの発電を行う'''辰巳山発電所計画'''も内川ダム中止により計画が成り立たなくなったため断念を余儀なくされた。
 
一方伊南川は1947年から3年連続で水害の被害を受けていたこともあり[[建設省]]北陸地方建設局<ref>現在の[[国土交通省]]北陸[[地方整備局]]。</ref> が舘岩川合流点直上流部の伊南川に[[洪水調節]]を目的とした'''大桃ダム計画'''を[[1950年代]]後半より立てていた。高さ74メートル、総貯水容量1,388万立方メートルの重力式ダムで、内川ダムに比べると大幅に規模は縮小しているが、東北電力はこの大桃ダムに電気事業者として参加し、2万600キロワットの出力を有する'''大桃発電所計画'''を立てた。しかしこの大桃ダム計画も地盤や水量調査といった基礎調査を行うに留まり、[[1960年代]]半ばには立ち消えとなった。これ以後伊南川本流では新規の水力発電計画は実施されず、戦前から稼働している'''伊南川発電所'''のみが残るに至った。
 
=== 送電 ===
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只見特定地域総合開発において建設されたのは水力発電所やダムだけではなく、鉄道や道路といった地域生活に欠かせない[[インフラストラクチャー]]も整備された。
 
その第一に挙げられるのは[[東日本旅客鉄道|JR東日本]]・'''[[只見線]]'''である。只見線自体は計画当時新潟県側は[[大白川駅]]まで、福島県側は[[会津宮下駅]]まで開通していた。しかし残りの区間は開通しておらず、道路事情も劣悪であったことから特に冬季は只見町中心部は完全に交通が遮断され、孤立した状況であった。田子倉ダム建設に際し、建設物資輸送ルートを電源開発は只見川下流より遡るルートと、[[会津田島駅]]から[[駒止峠]]を越えて田子倉へ向かうルート<ref>現在の[[国道289号]]と同じルートである。</ref> の何れかを工事用道路として検討していた。そこに[[日本国有鉄道|国鉄]]が只見線を1956年9月に[[会津川口駅]]まで開通させ、ここを起点にするのが距離の短縮につながるという理由で只見川沿いのルートが選択された。
 
ところが、道路建設計画を立案したところ事業の長期化と工費の高騰が予見されたので、代わりに鉄道輸送による物資運搬を図る計画とした。そこで会津川口駅を基点に[[只見駅]]までの32.2キロメートルを'''田子倉専用鉄道'''として建設する計画を[[運輸省]]に申請した。運輸省は「電源開発が専用鉄道を使用した後は、撤去せずに国鉄に譲渡し[[営業路線]]として使用する」ことを条件に鉄道の敷設を許可、国鉄に工事を委託して総工費29億円で1957年8月に完成した。途中豪雨や豪雪に見舞われながらも突貫工事により20ヶ月工期を短縮しての開通であった。[[コンクリート]]を始めとする一回1,200トンにも及ぶ大量のダム建設資材を一日四往復して運搬し、工事の進捗に貢献し田子倉ダムは1961年完成する。その後は運輸省の承認条件どおり国鉄に譲渡され[[1963年]](昭和38年)[[8月20日]]に営業路線として運用、田子倉トンネル・六十里越トンネルが完成し[[1971年]](昭和46年)に田子倉~大白川間が開通することで只見線は全通。会津若松市と[[小出町]]<ref>現在の魚沼市小出</ref> が一つに結ばれた。
 
一方道路については奥只見ダム建設による'''[[奥只見シルバーライン]]'''が知られている。奥只見ダムは田子倉ダムよりもさらに奥地の険阻な山岳地帯、[[銀山平]]に建設されたが、当時の銀山平は小出から片道で三日間も掛かる[[へき地]]であった。途中には[[枝折峠]]の難所があり、冬季は数メートルにも及ぶ積雪が行く手を阻んだ。奥只見ダムを建設するに当たり膨大な建設資材を運搬するには道路建設による輸送しかなかったが、当時はこの有様だったのでダム建設に先立ち[[湯之谷温泉]]付近から全長22キロメートルの工事用道路・'''奥只見専用道路'''を建設することになった。工事は1954年12月より着工を開始したが、[[雪崩]]や転落などで54人が殉職する難工事となった。だが厳しい自然との闘いを乗り越え[[1957年]](昭和32年)11月、3年の歳月を掛けて完成するに至った。この道路の特徴は'''全長22キロのうち18キロがトンネルで占められ'''、[[雪]]の影響を最小限に抑制する工法を採ったことである。ダム完成後しばらくは管理用道路であったが[[1969年]](昭和44年)新潟県に譲渡され[[有料道路]]として供用、[[1977年]](昭和52年)には無料化された。現在は年間60万人ともいわれる奥只見ダムへの観光ルートとして使用されている。
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只見川では[[1979年]](昭和54年)より'''只見発電所・只見ダム'''の建設計画が田子倉ダムの直下で行われていた。当初は[[1968年]](昭和43年)に計画が浮上したが地元只見町の反対が強く、一旦立ち消えになっていた。しかしオイルショック以降水力発電の見直しが行われ、調査の結果田子倉・滝発電所間に残る有効落差を活用することで6万5,000キロワットの電力が新たに開発でき、かつ田子倉ダムから放流される水をより効果的に逆調整することが可能であることから[[1981年]](昭和56年)に着手した。只見町の56戸が水没することから補償交渉は難航し、[[水源地域対策特別措置法]]による補償額の増額なども図られ交渉が妥結。[[1989年]](平成元年)に完成した。さらに奥只見発電所の増設が[[1999年]](平成11年)に行われ、[[2003年]](平成15年)の完成により出力を一挙に20万キロワット増強させ'''56万キロワット'''となり、日本最大の一般水力発電所となった。現在は田子倉発電所の老朽化した[[発電機]]交換が行われており、[[2012年]](平成24年)に終了すれば出力は40万キロワットとなる。
 
只見川の支流である伊南川の支流・黒谷川には1990年より'''黒谷発電所'''(出力1万9,600キロワット)の建設が始まり、[[1993年]](平成5年)完成した。この発電所の取水口である'''黒谷取水ダム'''<ref>高さが6.0メートルと[[河川法]]に基づくダムの基準・15.0メートルに満たないため、[[堰]]として扱われる。</ref> は、ダム本体がコンクリートではなく[[ゴム]]で出来ている[[ゴム引布製起伏堰]]と呼ばれるもので、一般にはラバーダムとも呼ばれる。ゴム内部に空気を送り込むことでゴムを膨張させ、貯水を行うというメカニズムを持つダムである。この他黒又川が合流する[[破間川]]の上流には[[1985年]](昭和60年)に新潟県によって[[多目的ダム#補助多目的ダム|補助多目的ダム]]である[[破間川ダム]]が建設されたが、電源開発はこのダムを利用して'''破間川発電所'''(出力5,100キロワット)を稼働させている。
 
揚水発電についても大幅に増強され、[[1982年]](昭和57年)に'''第二沼沢発電所'''が完成した。出力は既設沼沢沼発電所の10倍に当たる46万キロワットで、東北電力の水力発電所としては最大規模である。旧時代のものとなった沼沢沼発電所は[[2002年]](平成14年)に施設一切が撤去された。さらに電源開発は阿賀野川上流部での揚水発電事業に着手した。[[1971年]](昭和46年)に建設省が阿賀野川本流に建設を開始した[[多目的ダム]]・[[大川ダム]]を下部調整池として利用し、[[大内宿]]の奥に上部調整池として[[大内ダム]]を建設。大川ダムの[[人造湖]]である若郷湖畔に'''[[大内ダム#下郷発電所|下郷発電所]]'''を建設して出力'''100万キロワット'''と阿賀野川水系最大の水力発電所を建設した。発電所は[[1988年]](昭和63年)のダム完成に合わせて、先行して据え付けが完了していた発電機2台が稼働を開始。[[1991年]](平成2年)に残る2台の据え付けが完了し、全面稼働を開始した。
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この間尾瀬が[[1960年]](昭和35年)に[[特別天然記念物]]に指定されたことから東京電力はダム建設を事実上諦め、[[1966年]](昭和41年)にはダムに拠らない尾瀬分水案を計画、尾瀬原ダム計画は凍結状態となった。しかし関東地方一都五県はダム建設による尾瀬分水を要望、これに対し豊富な只見川の水を関東に奪われることを恐れた福島県は、新潟県と共同で猛反対し東北五県にも協力を依頼した。このため本名・上田両発電所の水利権問題以来再び関東と東北が対立、水利権の許可・不許可を巡って攻防戦が繰り広げられた。
 
しかし連携する予定であった沼田ダム計画は[[1972年]](昭和47年)に中止、その後こう着状態が続く中で[[1992年]](平成4年)[[行政手続法]]施行によって東京電力は次回以降の[[尾瀬ヶ原]]の水利権保留の引き伸ばしが不可能になった。[[利根川水系8ダム]]の完成、環境保護問題の高まりや尾瀬第一・第二発電所に替わる大規模揚水発電所の相次ぐ完成で建設のメリットが無くなった東京電力は[[1996年]](平成8年)尾瀬ヶ原の水利権を放棄<ref>1949年に完成した尾瀬沼から片品川への分水はそのまま水利権を更新している。</ref> し、ここに1919年から'''76年続いた尾瀬原ダム計画・尾瀬分水案は消滅'''した。また電源開発は奥只見ダムから分水を行って[[信濃川]][[水系]]佐梨川に揚水発電所を建設する「'''湯之谷揚水発電計画'''」を1991年より着手した。かつて新潟県が主張した「只見川分流案」に良く似た計画であったが、小説家・[[開高健]]<ref>この時は既に没している。</ref> が立ち上げた「奥只見の魚を育てる会」などから環境破壊であるとして猛反発を受け、さらに電力需要の低下による採算性の問題から[[2001年]](平成13年)に中止、下部調整池に予定されていた佐梨川ダム<ref>新潟県が計画していた[[多目的ダム]]。電源開発は上部調整池を自社で建設し、下部調整池としてこのダムを利用する予定であった。</ref> が[[2003年]](平成15年)に中止されたことで、計画は完全に消滅した。
 
== 地元への影響 ==
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== 発電所一覧 ==
:''只見川・阿賀野川の発電所・ダム位置については [http://www.mlit.go.jp/river/shinngikai_blog/shaseishin/kasenbunkakai/shouiinkai/kihonhoushin/070711/pdf/ref3-2.pdf 阿賀野川水系図] を参照。''
只見川・阿賀野川の水力発電開発は大正時代より進められ、只見特定地域総合開発計画において'''奥只見ダム'''・'''田子倉ダム'''を始め多くのダムと発電所が完成した。その後も水力発電開発は進められ、現在では猪苗代系統の水力発電所を除いた合算で'''372万2,000キロワット'''の電力が生み出されており、今後も首都圏及び東北地方の電力需要に大きな役割を果たす。
 
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!型式
!高さ<br/>(m)
!総貯水<br/>容量<br/>(千m&sup2;²)
!有効<br/>貯水容量<br/>(千m&sup2;²)
!運転開始年
!管理者
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| bgcolor="lightyellow" align=center|[[1956年]]
| align=left|[[大竹作摩]][[福島県知事一覧|福島県知事]]と住民の東京会談により、田子倉ダム補償交渉妥結。
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| rowspan="3" bgcolor="lightyellow" align=center|[[1957年]]