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|日本語国名 = 西秦
|公式国名 = 秦
|建国時期 = [[385年]][[9月]]
|亡国時期 = [[431年]][[1月]]
|先代1 = 前秦
|先旗1 = blank.png
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|位置画像説明 = 西秦の領域。
|公用語 = 漢語([[中国語]])
|首都 = 金城・勇士城・苑川西城・苑川・譚郊・定連・南安
|元首等肩書 = 秦王
|元首等年代始1 = [[385年]][[9月]]
|元首等年代終1 = [[388年]][[6月]]
|元首等氏名1 = [[乞伏国仁]]
|元首等年代始2 = [[388年6月]]
|元首等年代終2 = [[412年]]6月
|元首等氏名2 = [[乞伏乾帰]]
|元首等年代始3 = 412年[[8月428年]]
|元首等年代終3 = [[428431]][[5月]]
|元首等氏名3 = [[乞伏熾磐暮末]]
|元首等年代始4 = 428年5月
|元首等年代終4 = [[431年]][[1月]]
|元首等氏名4 = [[乞伏暮末]]
|変遷1 = 建国
|変遷年月日1 = [[385年]][[9月]]
|変遷2 = [[夏 (五胡十六国)|夏]]によって滅亡
|変遷年月日2 = [[431年]][[1月]]
}}
'''西秦'''(せいしん、[[拼音]]:Xī-qín、[[385年]] - [[431年]])は、[[中国]]の[[五胡十六国時代]]に[[鮮卑]][[乞伏部]]の[[乞伏国仁]]によって建てられた国。
 
== 歴史 ==
乞伏国仁は[[前秦]]の[[苻堅]]に仕えていた[[鮮卑族]]の有力部族長であった。[[383年]]、[[ヒ水の戦い|淝水の戦い]]で前秦軍が[[東晋]]軍の前に大敗を喫すると、[[385年]]に乞伏国仁は前秦から独立し、ここに西秦が成立した。
=== 建国期 ===
[[河西]]・[[隴西]]地方に居住していた西部[[鮮卑]]の乞伏部は[[三国時代 (中国)|三国時代]]に高平川流域(現在の[[寧夏回族自治区]]中部)に居住していた<ref name="民族大移動117">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P117</ref>。その後、苑川・麦田(現在の[[甘粛省]][[靖遠県]])を経て<ref name="民族大移動117"/>、4世紀中頃には[[乞伏司繁]]に率いられて度堅山(現在の甘粛省靖遠県)に移り、遊牧をして生活を営んでいた<ref name="民族大移動118">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P118</ref>。しかし[[前秦]]の[[苻堅]]・[[王猛]]らによる華北統一の波が乞伏部にも及び、[[371年]]には前秦の[[益州]][[刺史]][[王統]]の攻撃を受けて乞伏部は降伏し、乞伏司繁は[[長安]]に送られて苻堅より南単于に任命された<ref name="民族大移動118"/>。[[373年]]に鮮卑の[[勃寒]]が隴右を犯したため、苻堅は乞伏司繁に命じてこれを討伐させ、そのまま勇士川(現在の甘粛省[[楡中県]])を領することになった<ref name="民族大移動118"/>。[[376年]]に乞伏司繁は死去し、子の[[乞伏国仁]]が跡を継いだ<ref name="民族大移動118"/>。[[383年]]の[[ヒ水の戦い|淝水の戦い]]では乞伏国仁は前将軍として従軍を命じられていたが、その直前に乞伏国仁の叔父が隴西で反乱を起こしたため、苻堅は乞伏国仁に討伐させるため引き返させた<ref name="民族大移動118"/>。この戦いで前秦軍が東晋軍の前に大敗し、叔父から自立を説得されていた乞伏国仁は隴西にそのまま留まって諸部を召集し、10万余の兵力を有するようになった<ref name="民族大移動118"/>。
 
第2代の乞伏乾帰の時代における勢力拡大で西秦の領土はさらに拡大した。しかし431年、[[夏 (五胡十六国)|夏]]の[[赫連定]]により滅ぼされた。
[[385年]][[8月]]、苻堅が[[後秦]]の[[姚萇]]により殺害されると、9月に乞伏国仁は大単于を自称し、[[建義]]と改元して勇士城に遷都して独立した<ref name="民族大移動118"/>。これが西秦の起源である<ref name="民族大移動118"/>。ただし西秦は前秦に叛旗を翻したわけではなく、あくまでその服属下に従属していた<ref name="民族大移動118"/>。
 
=== 勢力拡大 ===
西秦の周囲には前秦、後秦、[[後涼]]など様々な強国が存在したため、勢力はかなり限定的で、常に外交関係の配慮に重点が置かれた<ref name="民族大移動118"/>。[[388年]][[6月]]に乞伏国仁は死去し、弟の[[乞伏乾帰]]が大単于・河南王として即位し<ref name="民族大移動118"/>、9月には西の金城(現在の甘粛省[[蘭州市]])に遷都した<ref name="民族大移動119">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P119</ref>。乞伏乾帰は前秦に服属しながら後秦と衝突し、周辺の部族を次々と服属させ、[[吐谷渾]]からは朝貢を受けるようになるが、この勢力拡大により後涼と衝突して[[392年]][[8月]]に現在の甘粛省[[臨夏市]]を後涼に奪われて敗北した<ref name="民族大移動119"/>。[[394年]][[6月]]に前秦の[[苻登]]から河南王に封じられたが、7月に苻登は後秦の[[姚興]]により殺害されたため、乞伏乾帰は前秦との関係を解消して自立し、10月には苻登の後継者[[苻崇]]や後[[仇池]]の[[楊定]]を破って隴西を平定し、12月に秦王を自称した<ref name="民族大移動119"/>。
 
だが後涼との敵対は継続し、後涼の[[呂光]]の圧力を受けて[[395年]][[6月]]に苑川西城(現在の甘粛省蘭州市)に遷都した<ref name="民族大移動119"/>。7月には息子の[[乞伏勃勃]]を人質に差し出して呂光に従属した<ref name="民族大移動119"/>。だが[[397年]]、後涼から[[南涼]]と[[北涼]]が離反・自立したため後涼は衰退し、乞伏乾帰は南涼と連携して再度自立した<ref name="民族大移動119"/>。
 
=== 一回目の滅亡 ===
[[400年]][[1月]]、乞伏乾帰は東の苑川に遷都したが、5月に西進してきた後秦軍と戦って敗れ、7月に南涼に逃亡した<ref name="民族大移動119"/>。ところが南涼に反乱を察知されたため、11月に[[長安]]に逃亡して後秦の姚興から[[河州]][[刺史]]・帰義侯に封じられ後秦の家臣となり、ここに西秦は国家としては滅亡した<ref name="民族大移動119"/>。ただし乞伏乾帰は苑川に戻る事を許されたため、以後は自己の勢力を保持しながら後秦の武将として後涼や後仇池、吐谷渾を攻撃した<ref name="民族大移動119"/>。
 
=== 再興 ===
[[402年]][[5月]]、後秦は[[北魏]]と[[平陽]]南部で戦い大敗した([[柴壁の戦い]])<ref name="民族大移動117"/>。この敗戦で後秦は衰退が始まり、[[407年]][[6月]]には[[夏 (五胡十六国)|夏]]が自立したこともあり<ref name="民族大移動117"/>、その衰退が顕著になったので、[[409年]][[7月]]に乞伏乾帰は[[度堅山]]で秦王を称して[[更始]]と改元して後秦の支配から脱却し、西秦を再興した<ref name="民族大移動120">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P120</ref>。
 
[[410年]][[8月]]、乞伏乾帰は苑川に遷都し、[[略陽]]・[[南安]]・隴西と後秦領を次々と併合した<ref name="民族大移動120"/>。しかし後秦は東晋や夏からの圧力を受けて西秦にまで軍を向ける余裕は無く、その支配を追認して乞伏乾帰を大単于・河南王に封じて形式的に服属させるのみだった<ref name="民族大移動120"/>。以後、乞伏乾帰は南涼、吐谷渾を攻めて勢力を拡大し、[[412年]][[2月]]には[[譚郊]](現在の甘粛省[[臨夏市]])に遷都したが、6月に乞伏乾帰は兄乞伏国仁の息子[[乞伏公府]]により10人余の息子と共に殺害された<ref name="民族大移動120"/>。
 
=== 再びの勢力拡大 ===
乞伏公府の反乱の際、苑川に鎮守して難を逃れた乞伏乾帰の長男[[乞伏熾磐]]は、直ちに乞伏公府を討って即位した<ref name="民族大移動120"/>。[[414年]][[5月]]には南涼を滅ぼし、秦王を自称した<ref name="民族大移動120"/>。また吐谷渾を攻めて益州西部を併合し、さらに後秦が東晋の[[劉裕]]により攻撃されると東晋に従属して後秦領を切り取り、さらに[[漢中]]進出を目論んだが夏と衝突する事を恐れて断念した<ref name="民族大移動120"/>。また[[北涼]]と[[西涼]]の抗争を利用して河西方面へ進出して勢力を拡大した<ref name="民族大移動120"/>。
 
=== 衰退・滅亡期 ===
[[421年]][[3月]]、北涼が西涼を滅ぼすと西秦と衝突するようになり、さらに夏も関中に進出して西秦と敵対し、これに乗じて吐谷渾まで攻めてきたため、包囲網を敷かれた西秦は守勢に回った<ref name="民族大移動120"/>。乞伏熾磐は[[北魏]]と連携する事で打開を図り、北魏に夏を攻撃させて一応の成果を挙げた<ref name="民族大移動121">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P121</ref>。だが西秦国内で吐谷渾や[[羌]]の反乱が相次ぎ、結局衰退は免れ得なかった<ref name="民族大移動121"/>。
 
[[428年]][[5月]]に乞伏熾磐は死去し、息子の[[乞伏暮末]]が即位する<ref name="民族大移動121"/>。だが北涼の圧力を受けた乞伏暮末は[[429年]][[5月]]に定連(現在の甘粛省臨夏市)に遷都し、[[430年]][[10月]]に夏から攻撃されたため北魏の支援を求めて[[平涼]](現在の甘粛省[[華亭県]])や[[安定]]に遷都しようとするも、夏に阻まれて南安に遷都するのがやっとだった<ref name="民族大移動122">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P122</ref>。
 
だが皮肉にも、支援を求めた北魏により西走してきた夏の[[赫連定]]により[[431年]][[1月]]に南安を攻められ、乞伏熾磐は夏に降伏した<ref name="民族大移動122"/>。こうして国家としての西秦は滅亡した<ref name="民族大移動122"/>。乞伏暮末は助命されたが、6月に一族もろとも夏により殺戮されて<ref name="民族大移動122"/>、西秦は完全に滅亡した。
 
== 国家体制 ==
=== 官制 ===
西秦の勢力基盤だった隴西は漢人豪族が多数居住し、そのため鮮卑族がかなり漢化する事になった<ref name="民族大移動122"/>。単于台が築かれず、五胡を統治するための特別な機構も無く、官制が三省六卿や四征将軍を中心とする[[漢]][[魏 (三国)|魏]]以来の形態を取っていた事が、それを如実に物語っている<ref name="民族大移動122"/>。高官に就任するのは皇族である乞伏氏が中心であったが、勢力基盤の都合から漢族や[[丁零]]からの就任も少なくなかった<ref name="民族大移動122"/>。
 
=== 外交 ===
西秦は周囲を前秦・後秦・北魏・後涼・西涼・東晋・南涼・夏などに囲まれていたため、常に存続や連携のために外交は欠かせず、あるいは服属して藩を称するなどして周辺諸国から掣肘を受け続けた<ref name="民族大移動122"/>。首都を短期間で各地に遷したのも外交政策の一環であった<ref name="民族大移動122"/>。ちなみに歴代君主は皇帝・天王などを自称した事は一度も無く、常に服属した国から位を授かっていた<ref name="民族大移動122"/>。このため独立国というより半独立国ともいえるが、一時期秦王を自称した時期だけを独立国として見ることもできる<ref name="民族大移動122"/>。
 
== 西秦の君主 ==
#烈祖宣烈王([[乞伏国仁]]、在位[[385年]] - [[388年]]) 大単于と称する。[[前秦]]に封ぜられた苑川王となる。
#高祖武元王([[乞伏乾帰]]、在位[[388年]] - [[400年]]、[[410年]] - [[412年]])
#太祖文昭王([[乞伏熾磐]]、在位[[412年]] - [[428年]])
#後主([[乞伏暮末]]、在位[[428年]] - [[431年]])
 
*高祖は、はじめ大単于、河南王と自称した。後、[[前秦]]に封ぜられた梁王となった。
*高祖は、[[394年]]、秦王と称した。
*[[400年]] - [[409年]]の間、[[後秦]]に服属していた。
*高祖は、[[409年]]、後秦から独立して、再び秦王と称した。
*皇帝と称した事は1度も無い<ref name="民族大移動122"/>。
 
== 元号 ==
#[[建義 (西秦)|建義]]([[385年]]-[[388年]])
#[[太初 (西秦)|太初]](388([[388]]-[[400年]])
#[[更始 (西秦)|更始]]([[409年]]-[[412年]])
#[[永康 (西秦)|永康]](412([[412]]-[[419年]])
#[[建弘]]([[420年]]-[[428年]])
#[[永弘]](428([[428]]-[[431年]])
 
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references group="注釈"/>
=== 引用元 ===
<references/>
 
== 参考文献 ==
* [[三崎良章]]『五胡十六国、中国史上の民族大移動』([[東方書店]]、[[2002年]]2月)
 
== 関連項目 ==
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[[Category:鮮卑]]
[[Category:五胡十六国の王朝]]
 
[[de:Westliche Qin]]
[[en:Western Qin]]
[[ko:서진 (오호 십육국)]]
[[no:Vestlige Qin]]
[[ru:Западная Цинь]]
[[sh:Zapadni Qin]]
[[vi:Tây Tần]]
[[zh:西秦]]