「ジョセフ・マッカーシー」の版間の差分

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[[ファイル:Welch-McCarthy-Hearings.jpg|250px|サムネイル|公聴会でウェルチ(左)を問責するマッカーシー<BR />この一部始終はテレビで全米に中継された。]]
マッカーシーはその後も陸軍を追求する委員会において、コーンとともに陸軍内の「共産主義シンパ」の浸透を許したと軍の上層部を告発したが、[[6月9日]]に全米へ中継された[[公聴会]]ではマッカーシーの攻撃的かつ侮辱的な問責が目立ち、喚問された陸軍側弁護士の{{仮リンク|ジョセフ・ウェルチ|en|Joseph N. Welch}}から逆に告発の内容の信憑性の低さを指摘された上に終いにはこの様に叱責されるお粗末さだった。
{{Quotation|君、ちょっと話を止めて良いかね?君が私と同じ一弁護士で君の前途を抹殺しようとは思わんが、もう沢山だ。'''君は品位というものが無いのかね?'''}}
全米に放送されたこのシーンは、その後のマッカーシーの没落の象徴として多く流されることになる。
 
さらにその後、共和党のラルフ・フランダース上院議員が、1954年[[6月11日]]にマッカーシーに対する譴責決議案を発議し、アーサー・V・ワトキンス上院議員率いる委員会が組織されマッカーシーに対する調査を開始した。その後、上院は1954年[[12月2日]]に、65対22でマッカーシーを「上院に不名誉と不評の品位を損ね、それへの批判をもたらすよう生む行動した」とした譴責決議を採択した。
 
マッカーシーの決定的な没落の原因が一連の陸軍への調査と、その後のマローの番組であることは確かであるとしても、合衆国上院の何人かの議員がマッカーシーに対し1953年のだいぶ前から反対していた事は注目する価値がある。一つの例は{{仮リンク|マーガレット・チェイス・スミス|en|Margaret Chase Smith}}であり、[[メイン州]]選出で当時の米上院では唯一の女性議員だったスミスは、[[1950年]][[6月1日]]の「良心の宣言」の中でマッカーシーを名指しはしなかったものの(それは上院のルールにより要求されていた)マッカーシーのやり方を非難している。6人の上院議員の同僚がスミスに加わっている。