「フランキー・イェール」の版間の差分

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'''フランキー・イェール'''(Frankie Yale(Uale)、[[1893年]][[1月22日]] - [[1928年]][[7月1日]])は、[[ニューヨーク]]の[[ギャング]]。本名'''フランチェスコ・イオエーレ'''(Francesco Ioele。イタリアの[[カラブリア州]][[ロンゴブッコ]]出身。1900年、一家で[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に渡り、ニューヨークの[[ブルックリン区|ブルックリン]]に定住した。イタリア移民に寄生する強請屋(ブラックハンド)の側面と禁酒法下の密輸実業家の面があり、ストリートギャングとシンジケートギャングの中間に位置する。転換期のギャング。
 
== ファイブポインツギャング ==
地元のギャング集団[[ファイブ・ポインツ・ギャング]]の下部組織であるファイブ・ポインツ・ジュニアに加入した。17歳でレスラーのブービー・ネルソンとチームを組んでビリヤード場を荒らしまわり、羊泥棒や武器の不法所持で幾度も逮捕された。20歳までに12人を殺したとされるが、やがてブルックリンの港湾荷役の組合に進出し、商店から保護料を巻き上げた。1915年、同じファイブ・ポインツの[[ジョニー・トーリオ]]がシカゴに移った時[[ブルックリン区|ブルックリン]]のシマを受け継いだ。1917年、[[コニーアイランド]]に酒場「ハーヴァード・イン」を開いた。同じ頃、バーテンダー兼用心棒に、トーリオから紹介された[[アル・カポネ]]を雇った。同年、24歳でマリア・デラピアと結婚。その後、ローザとイザベラの2人の娘が生まれた。
 
== VIP暗殺 ==
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== ホワイトハンドとの抗争 ==
[[1922年]]2月、[[ロワー・マンハッタン]]で行われたギャングスターの集会に出かけた夜、車を降りダンスホールへ向かう途中で背後から銃撃を受けた。銃弾が片肺を貫通する重傷だったが、一命は取りとめた。警察はライバルの[[ホワイト・ハンド]]のワイルド・"ビル"・ロベットを疑った。
 
[[1925年]]のクリスマス・パーティーのときイェールたちを襲撃しようと計画していたホワイト・ハンドのリチャード・"ペグレグ"・ロナガンたちをカポネたちと返り討ちにし殺害する。ホワイト・ハンド壊滅後はブルックリン臨海区の支配者となる。