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アナトリアに逃れたギリシャ系の[[ニカイア帝国]]により[[1261年]]に東ローマ帝国は復活したが、国力が弱体化していたためにギリシャ全土を奪回できず、諸勢力の割拠状態が続き、その隙をついて14世紀以降は[[イスラム王朝]]の[[オスマン帝国]]が勢力を伸張させていった。
 
=== 世: オスマン朝支配時代 ===
{{main|トルコクラティア}}
[[1453年]]、東ローマ帝国はオスマン帝国によって滅ぼされ、残る諸勢力も15世紀末までにはほとんどがオスマン帝国に征服された。オスマン帝国はコンスタンティノポリスに遷都し、369年間のオスマン帝国による統治が続いた。
 
=== 近代: 独立回復と王政時代 ===
[[ファイル:Map Greece expansion 1832-1947 ja.svg|thumb|250px|[[ギリシャ王国]]の領域([[1832年]]-[[1947年]])]]
{{main|東方問題}}
[[オデッサ|オデッセイ]]において創設された秘密組織[[フィリキ・エテリア]]を中心として、[[1821年]]オスマン帝国に対する反乱が企てられた。3月にギリシャ各地の都市で蜂起が起こり、[[ギリシャ独立戦争]]が始まった。[[エジプト]]の助けを得てこれを鎮圧しようとしたオスマン帝国に対し、[[イギリス|英]]・[[フランス|仏]]・[[ロシア帝国|露]]が介入、[[1829年]]、[[アドリアノープル条約]]によって[[ギリシャ第一共和政|ギリシャ独立]]が承認された。翌[[1830年]]、[[バイエルン王国]]の王子オットーを[[オソン1世]]として[[国王]]に据え[[ギリシャ王国]]として独立し、[[古代ギリシャ]]滅亡以来約1900年ぶりにギリシャ人の国家が復活した。
 
その後は汎ギリシャ主義([[メガリ・イデア]])を標榜し、[[1897年]]にはトルコに侵攻([[希土戦争 (1897年)|希土戦争]])し敗北するも、[[第一次世界大戦]]直前の[[1912年]]から[[1913年]]には[[バルカン戦争]]に参戦で勝利し、クレタ島をトルコから奪取した。<!--第一次世界大戦は1914-1918が一般的ですが、wikiでは違う定義を行っている?-->
 
[[1919年]]の[[パリ講和会議]]では[[大日本帝国|日本]]の提出した[[人種差別撤廃案]]に賛成するなど反人種差別を表明した。[[1919年]] - [[1922年]]にセーブル条約を押し付けるため、ギリシャ系住民保護を名目にアナトリアに侵攻したが、([[希土戦争 (1919年-1922年)|希土戦争]])[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル・パシャ]]が率いるトルコ軍に敗退した。[[1924年]]に[[クーデター]]により[[共和制]]の[[ギリシャ第二共和政]]となるが、[[1935年]]には[[王政]]([[ギリシャ王国]]、[[1935年]] - [[1941年]])が復活したが、国王[[ゲオルギオス2世 (ギリシャ王)|ゲオルギオス2世]]の強権発動によって極右政党党首[[イオアニス・メタクサス]]が陸軍大臣に任命されていたが、[[1936年]][[4月12日]]に暫定首相{{仮リンク|コンスタンディノス・デメルジス|en|Konstantinos Demertzis|label=デメルジス}}が死去したことに伴い首相に就任。[[1936年]][[8月4日]]にメタクサスがクーデターを起こし[[八月四日体制]]([[1936年]] - [[1941年]])と呼ばれる独裁体制となった。
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=== 軍事独裁政権時代 ===
 
[[コンスタンティノス2世 (ギリシャ王)|国王]]は[[アメリカ合衆国]]の支援の元に中道諸派の連合による新政権を確立させるべく、[[1967年]]、総選挙を準備した。しかし、選挙の結果中道派政権が確立されることによる発言権の低下を恐れた軍部が陸軍将校、{{仮リンク|スティリアノス・パッタコス|en|Stylianos Pattakos}}准将、[[ゲオルギオス・パパドプロス]]大佐、{{仮リンク|ニコラオス・マカレゾス|en|Nikolaos Makarezos}}大佐を中心としてクーデターを起こし、結局アメリカが軍部の独裁体制を容認した。結局、反クーデターに失敗したコンスタンティノスは国外へ亡命した。
 
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== 国際関係 ==
周辺国との関係では、[[キプロス]]の帰属問題で[[トルコ]]とは対立関係にある。<!--(日本人の、特に保守派の間では、ギリシャは「トルコと仲が悪い国」「トルコに喧嘩を仕掛けている国」というイメージが強い。2ちゃんねるの中でも親日国であるトルコと対立しているという理由で[[韓国]]、[[中国]]に次いで嫌われている。)-->ギリシャ民族の国家であった[[マケドニア王国]]やギリシャ国内の[[マケドニア地方]]と同じ名を名乗るスラヴ系の[[マケドニア共和国]]とも対立状態にある。
 
== 軍事 ==
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[[ファイル:View of Athens from Lycabettus.jpg|thumb|250px|最大の都市である首都[[アテネ]]]]
 
[[国際通貨基金|IMF]]の統計によると、[[2013年]]の[[国内総生産]] (GDP) は2,418億ドルであり<ref name="imf201410" />、[[神奈川県]]よりやや小さい経済規模である<ref>[http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/data/data_list/kenmin/files/contents/pdf/gaiyou1.pdf 平成 22 年度県民経済計算について]内閣府。2013年12月7日閲覧。</ref>。同年の一人当たりの GDP は21,857ドルである<ref name="imf201410" />。主力産業は農業、鉱業、工業、輸送業(主に海運業)、観光。農業では世界第3位の生産量である[[オリーブ]](200万トン)や世界8位の[[綿]]、同10位の[[タバコ|葉タバコ]]が際立つ。いずれも地中海性気候に合った作物である。しかしながら小麦やとうもろこしなど主食となる穀物の生産は振るわず、農業国でありながら食料を自給できていない<ref>以下、統計資料は[[国際連合食糧農業機関|FAO]] Production Yearbook 2002、[[国際連合|United Nations]] International Trade Statictics Yearbook 2002、United Nations Mineral Yearbook 2002。統計データはいずれも2002年時点の数値である</ref>。
 
鉱業では[[石炭]]が有力。石炭の統計は品位別に分かれており、低品位で主に燃料に用いる[[亜炭]]・[[褐炭]]では世界第4位(6,600万トン)である。[[マグネシウム]]鉱にも富み、生産量は世界第6位である。[[鉄]]、[[ニッケル]]、[[ボーキサイト]]、原油、[[天然ガス]]など、生産量は少ないながら10種類以上の主要鉱物が見られる。
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工業は食品加工業や繊維業などが盛んだったが、造船業、製鉄、石油化学工業も発達している。世界第3位のオリーブ油生産が突出している。
 
古代から地中海一帯で貿易を展開してきた歴史があるせいか、[[オナシス]]家、[[スタブロス・ニアルコス|ニアルコス]]家、[[ラティス家]]、[[マルチノス家]]、[[ロス家]]、[[クルクンディス家]]、[[:en:Stavros G. Livanos|リバノス]]家と[[海運]]王が多く、輸送業の中心は船舶であり、船舶保有量は世界第4位の2,870万総トンに及ぶ。一般貨物船は船舶保有量(総トン)の3%と少なく、[[オイルタンカー]]、鉱石や穀物用のばら積み船が80%以上を占める。このような比率は船舶保有量上位10カ国には見られない特異な傾向である。ギリシャ人船主は[[パナマ]](世界第1位)や[[キプロス]](世界第6位)など税制優遇措置を利用できる国に自らの船を登録することも多く、実態を反映していない可能性がある。<!--(ただし、その内実は[[税制]]的な優遇から外国企業よりの[[名義貸し]]的な数が含まれる)--><!-- 逆です -->また、伝統的に失業率が高く、公務員就任数が多い。
ギリシャには技術力、科学力がある企業や研究機関がないため、工業製品、加工品、医薬品といった製造に高度な技術を要する製品の大半を輸入に頼っている。
また多くの雇用を生み出す大企業もないため、伝統的に失業率と公務員就任数が多く、経済基盤が弱い。
 
=== 観光業 ===