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=== 学生時代 ===
新潟市立石山中学校を経て[[新潟県立新潟高等学校]]卒業。新潟高校では2年次に強肩の捕手として甲子園を目指した。翌3年次に投手へ転向し、春の県大会で準優勝したが、夏の県大会はベスト8で終わり、結局は甲子園出場の夢はかなわなかった。[[東京大学]](文科三類)進学後は[[東京大学運動会硬式野球部|野球部]]に所属し、右[[アンダースロー]]の投手として活動<ref>[[俵万智]]は当時、六大学野球で場内アナウンス、いわゆるウグイス嬢をしていたという(「8番ピッチャー、大越くん」俵万智『旅の人、島の人』[[ハモニカブックス]][[2014年]])。</ref>。エースとして[[東京六大学野球連盟|東京六大学リーグ]]で通算50試合登板、8勝27敗、防御率3.52、142奪三振。8勝は東大の投手では5位タイ。「東大だったんだから頭脳派だったんでしょう」とよく言われるというが、むしろその逆で力と気迫を前面に押し出す投球が身上だったという。本人は「8勝も東大としてはまずまずだと思うけど、それよりも27敗を誇りに思う。よくここまで使ってもらえたと思うし、よくここまで投げぬいたな、と思う」と語っている<ref>[http://www.nhk.or.jp/nw9-okoshi-blog/ NHKニュースウオッチ9 大越健介ブログ]</ref>。[[1982年]]の新人戦では3連投し、立大に5-1、法大に2-0で勝利し、決勝で早稲田に0-1で惜敗。東大新人戦最高の準優勝に貢献した。[[1983年]]には[[太田誠]]([[駒澤大学野球部]]監督)によって、[[日米大学野球選手権大会]]の大学日本代表メンバーに史上初めて東大から選出された。その時の大学日本代表メンバーには[[明治大学]]の[[広澤克実|広澤克己]]、[[竹田光訓]]、[[日本大学]]の[[和田豊]]、[[法政大学]]の[[小早川毅彦]]らがいた。大越は第三戦で二番手投手として登板している<ref>[http://www.jubf.net/us/index12.html 第12回日米大学野球選手権大会記録] 全日本大学野球連盟 日米大学野球選手権大会コーナー</ref>。大リーグの[[セントルイス・カージナルス]]で活躍した[[マーク・マグワイア]]との対戦経験もある。
 
=== NHK ===