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== 概要 ==
[[明治|明治時代]]に『[[古事類苑]]』『[[故実叢書]]』『[[本居宣長全集]]』『[[和漢三才図会]]』『[[賀茂真淵全集]]』『[[国書刊行会本]]』『[[大日本史]]』『[[国史大辞典 (明治時代)|国史大辞典(明治版)]]』等を出版、大正時代に『[[水戸藩史料]]』、昭和戦前期に『[[日本随筆大
戦後には、古代史から近現代史までの多数の研究書に加え、[[文化史]]、[[美術史]]、[[考古学]]、[[民俗学]]、[[宗教史]]、[[国語]]・[[国文学]]等の書籍を出版しており、日本史関連の大半の学者が著書・編著を刊行している。
一般読者を対象とした教養書として、[[伝記]]『[[人物叢書]]』、日本史研究の成果を
2010年(平成22年)[[7月1日]]よりデジタル版「国史大辞典」が、[[インターネット百科事典]]「[[ジャパンナレッジ]]」の新しいコンテンツとして公開された。
== 歴史 ==
初代半七は[[天保]]10年([[1839年]])[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]に貧家の子として生まれ、米屋・菓子屋・小道具屋と奉公先を点々とし、[[江戸]][[日本橋蛎殻町]]の書肆若林屋喜兵衛の許に落ち着いた。安政4年([[1857年]])19歳
明治3年([[1870年]])11月、[[東京府]]京橋南伝馬町([[中央区 (東京都)|中央区]][[京橋 (東京都中央区)|京橋]]一丁目)の[[中央通り (東京都)|中央通り]]沿いに移転した。明治5年([[1872年]])には階上に有料の図書館ともいえる来読貸観所を併設するが、明治9年([[1876年]])11月の火災後閉鎖した。明治8年([[1875年]])頃より出版業にも携わり、明治12年([[1879年]])には内閣書記官岡三橋の推挙により[[宮内省]][[御用達]]を命ぜられ、明治20年([[1887年]])には貸本業を止め出版に専念した。明治35年([[1902年]])12月、初代吉川半七が死去し、林縫之助が二代目を継いだ。縫之助は日本橋元四日市町の書肆泉屋半兵衛(林半三郎)の次男で、近江屋に奉公、初代半七の次女ヨシの婿となった。
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