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== 生涯 ==
李敬妃が朱常瀛を産み、同月に亡くなった。 万暦47年8月、呂氏と結婚したが、同月花嫁の呂氏は急死した。
 
[[天啓 (明)|天啓]]7年([[1627年]])に、[[湖南省|湖南]][[衡陽]]の領地に移り住んだ。官員の黄用と高道素は建築公金を着服して、王府工事で明らかに強度の不足している材料を使用した。翌年9月、一部の桁が崩壊したが、二人の官員は400両の小金を銭轡として朱常瀛に与え、事件は終息した。翌年3月3日朝、朱常瀛の屋根は突然崩れ落ち、6人の女性<ref>名前は崔禄寿、呂寿喜、韓栄禄、崔遐寿、楊祥寿、呂福喜。</ref>が押し殺された。堪忍袋の緒を切らする朱常瀛は事故が報告された。崇禎帝は激怒し、「いつも親王ですれば、これも朕の結末である」といった。黄用と高道素が処刑され、崇禎9年、新い桂王府が落成した。