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[[熊野三山]]の要職に就いていた新宮別当家嫡流の[[行範]](のちに19代[[熊野別当]]に就任)の妻となった[[鳥居禅尼]](たつたはらの女房)の同母弟として生まれ、しばらく[[熊野速玉大社|熊野新宮]]に住んでいたため新宮十郎と称した。[[平治]]元年([[1159年]])の[[平治の乱]]では兄・[[源義朝]]に味方して従軍。戦闘には敗れるが、戦線離脱に成功して熊野に逃れ、その後約20年間、同地に雌伏する。[[治承]]4年([[1180年]])、[[摂津源氏]]の[[源頼政]]に召し出され、[[山伏]]に扮して[[以仁王]]の[[伊勢平氏|平家]]追討の令旨を各地の[[清和源氏|源氏]]に伝達した。[[暲子内親王|八条院]]の蔵人に補され、行家と改名したのはこの時である。なお『[[平家物語]]』によると、行家の動きは熊野別当[[湛増]]に気付かれて平家方に密告され、[[以仁王の挙兵]]が露見する原因になったという<ref>令旨によって熊野の勢力が二つに割れて争乱に発展したため、湛増が平氏に以仁王の謀反を注進したとされる。</ref>。
 
甥の[[源頼朝]]に決起を促したのも行家であるが、頼朝の麾下には入らず独立勢力を目指したため不和となる。[[養和]]元年([[1181年]])、[[尾張国]]の[[墨俣川の戦い]]、[[三河国]][[矢作川]]の戦いで二回に亘り平家方と交戦。壊滅的な敗北を喫し、頼朝のもとに逃れた。しかし、頼朝に所領を求めるも拒否されたため対立、以降は甥の[[源義仲]]の幕下に走っている<ref>行家を庇護しことで義仲と頼朝は一時武力衝突寸前となったが、両者の話し合いで義仲の嫡子・[[源義高|義高]]を頼朝の長女・[[大姫]]の婿として鎌倉に送る事でひとまず和議が成立した。</ref>。義仲の下では[[能登国]]・[[越中国]]国境での[[志保山の戦い]]に参加、上洛に当たっいるは伊賀方面から進攻し[[平家継]]と合戦を演じた(『[[吉記]]』)
 
[[寿永]]2年([[1183年]])、義仲とともに入京、[[後白河天皇|後白河院]]の前では義仲と序列を争い、相並んで前後せずに拝謁した。朝議の結果、勲功の第一が頼朝、第二が義仲、第三が行家という順位が確認され、[[従五位|従五位下]]・[[備後国|備後守]]に叙任されるが、義仲と差があるとして不満を述べ、すぐに[[備前国|備前守]]に遷任する。山村育ちで無骨な義仲が法皇や貴族達の不興を買う一方、近畿育ちで弁舌が立つ行家は院内にいりびたり、法皇の双六の相手などをして取り入った。しかしほどなく義仲とも不和となり、身の危険を感じて、平家討伐に名を借りて京を脱出。[[播磨国]]で[[平知盛]]・[[平重衡|重衡]]軍との[[室山の戦い]]でまたしても敗北を喫し、さらに義仲が派遣した[[樋口兼光]]にも敗れて行方不明となった。生来交渉力があリ、扇動者としての才と権謀術数に長けてはいたが、軍略面での才能には乏しかったようである<ref>長村[2011: 37]では、行家は「軍事指揮官としては無能だが、工作員としては有能」であったと評価されている。</ref>。