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[[ファイル:Grave of Kawarabayashi Masayori.jpg|thumb|極楽寺にある瓦林正頼の墓]]
'''瓦林正頼'''(かわらばやし まさより、生年不明 - [[永正]]17年([[1520年]]))は[[細川氏]]の家臣。[[瓦林城]]主。「瓦林」は「河原林」、「正頼」は「政頼」と表記されることもある
 
瓦林氏は室町時代、[[摂津国]][[武庫郡]]付近の豪族[[国人]]であり、摂津国[[守護]]であった[[細川氏]]に仕えていた。
「瓦林」は「河原林」、「正頼」は「政頼」と表記されることもある。
 
正頼は[[永正]]5年([[1508年]])摂津守護となった[[細川高国]]に従い各地を転戦する。[[永正]]8年([[1511年]])、高国の命により[[鷹尾城]]を築城したが、[[赤松義村]]に攻められ正頼は[[伊丹城]]へ退却した([[芦屋河原の合戦]])。
== 生涯 ==
[[瓦林城]](現在の[[兵庫県]][[西宮市]])を居城とする瓦林氏の当主である。
 
その後、[[永正]]13年([[1516年]])自らの拠点として[[越水城]](現在の兵庫県西宮市)を築いた。その後正頼は鷹尾城を奪還し、城は家臣に守らせたする。その後も、細川高国と[[細川澄元]]との戦いにおいて、高国方として武功を立てたが、永正17年([[1520(1520]])、高国から謀反の疑いを掛けられ自害を命ぜられた。
瓦林氏は室町時代、[[摂津国]][[武庫郡]]付近の豪族であり、摂津国の守護であった[[細川氏]]に仕えていた。
 
正頼の時代は、「[[永正の錯乱]]」と言われる[[細川氏]](京兆家)の内訌の時期であった。正頼は[[永正]]5年([[1508年]])摂津[[守護]]となった[[細川高国]]に従い活躍した。
[[永正]]8年([[1511年]])、高国の命令により、[[鷹尾城]](現在の兵庫県[[芦屋市]])に城を築いた。築城後すぐに赤松氏に攻められ([[芦屋河原の合戦]])、落ち延びることになる。
 
その後、[[永正]]13年([[1516年]])自らの拠点として[[越水城]](現在の兵庫県西宮市)を築いた。その後鷹尾城を奪還し、城は家臣に守らせた。その後も、細川高国と[[細川澄元]]との戦いにおいて、高国方として武功を立てたが、永正17年([[1520年]])、高国から謀反の疑いを掛けられ自害を命ぜられた。
 
墓所は、極楽寺(兵庫県西宮市)にある。
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[[category:戦国武将]]
[[category:摂津国の人物]]
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[[Category:1520年没]]
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