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'''東京プロレス'''(とうきょうぷろれすプロレス)は、[[アントニオ猪木]]らがかつて所属し、[[1966年]]に[[豊登道春|豊登]]が興した[[プロレス]][[団体]]
 
== 歴史 ==
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=== 太平洋上の略奪 ===
当時[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に遠征していた猪木は、日本プロレスの「[[ワールド・リーグ戦]]」へ凱旋参加するためアメリカでの武者修行を打ち上げ、馬場や吉村と合流しての合同トレーニングへ向けてハワイへ移動することとなった。
 
猪木は、当時ライバルであった馬場の遠征時の日本プロレスの扱いと比べ、遠征中に日プロからは何も連絡がなく、日本では常に猪木の先を走っていた馬場の人気が沸騰していたこともあって、「俺は本当に日プロから大事にされているのか、馬場さんとの差がどんどん開いていく気がする」と日本プロレスの自分への待遇に疑問を抱くようになっていた。猪木のハワイ到着時のマスコミの取材も少なく、しかも到着日に宿泊するホテルが予約されていなかったこと<ref>『プロレス醜聞100連発』54Pより。すでに猪木引き抜きの情報が日本プロレスにも察知されており、猪木に対して疑心暗鬼になっていたこともあって、冷遇したと言われる。</ref>もあって、日本プロレスの対応に益々ますます不安感を持った猪木を、豊登がハワイ入りして口説く形となったのである。
 
日本プロレス側は馬場に加えて役員の吉村を派遣して、猪木の豊登新団体への参加を阻止せんとしたが、結局、猪木は後からハワイへ合流した豊登の説得を受け、豊登新団体への参加を決意することとなった。この一件は俗に「太平洋上の略奪」と呼ばれる。
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華々しいスタートとは裏腹に、有力な興行基盤を持たない東京プロレスは早々に経営が悪化する形となった。東京プロレスの旗揚げと同時に設立された同団体専門の興行会社『オリエント・プロモーション』を中心に営業活動を行っていたが、地方での営業面では日本プロレスに圧倒されており、全34戦を予定していた東北地方を中心とした旗揚げシリーズはキャンセルが相次ぎ、たった20戦しか行われなかった。また、当時は有力な資金源となっていたテレビ局とも契約出来なかった。
 
このような最悪の経営状況の中でも、豊登は相変わらず資金を横領の上、ギャンブルに私的に流用し、事実上豊登の個人会社状態となっていたと言われる。猪木の発言によるとこの時点で「ギャンブルによる借金は5千万円近くあり、事実上東京プロレスの負債に回された」と証言しており、また、当時若手選手であった[[永源遙]]も「(いくら現在と貨幣価値が違うとは言え)公務員が月給2万円を越えていた時代に年俸1万円だった」と後に述懐している。旗揚げ後は選手の合宿所も設置されたが、食費は会社持ちではあるもののその米代にも窮していたと言われている。興行収益の無さや豊登による公金の私的流用も相まって窮乏する悪いムードの中、東京プロレスにとって致命的とも言える事件が発生した。
 
=== 板橋事件 ===