「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群」の版間の差分
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{{世界遺産概要表
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|site_img_capt = サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂
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|ja_name =ラヴェンナの<
|en_name = Early Christian Monuments of Ravenna
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|country = イタリア
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|rg_year = 1996年
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'''ラヴェンナの初期キリスト教建築群'''(ラヴェンナのしょきキリストきょうけんちくぐん)は、[[イタリア]]の[[ラヴェンナ]]にある[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[世界遺産]]登録物件名。登録は[[1996年]]。[[5世紀]]初頭から[[6世紀]]末に建設された初期キリスト教の聖堂・礼拝堂を対象とする。
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ラヴェンナは、[[西ゴート族]]による[[410年]]のローマ侵略の後、[[西ローマ帝国]]、そして[[東ゴート王国]]の首都、さらには東ゴート王国を滅ぼした[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国)が総督府を置いてイタリア統治の拠点にした都市である。[[ホノリウス]]が、[[ミラノ]]から防衛の容易なこの街にやってきた時には、すでに良港クラッシスを要する交易都市として栄えており、[[751年]]まで西の首都であり続けた。今日残る聖堂や礼拝堂は、この繁栄の時代に西ローマ帝国の皇妹皇母[[ガッラ・プラキディア]]、東ゴート王国の王[[テオドリック (東ゴート王)|テオドリック]]、[[東ローマ帝国]]・[[ユスティニアヌス1世]]時代のラヴェンナ司教マクシミアヌスの活動によって建設されたものである。[[750年]]までに、この街には60以上の聖堂が建設されていたことが伝えられる。
しかし、8世紀末になると
[[5世紀]]から[[6世紀]]までの都市の全体像は、発掘があまり行われていないこともあって、明確にはつかめていない。ただし、世界遺産に登録された聖堂のほか
== 建築物 ==
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: 皇妹皇母ガッラ・プラキディアによって建設され、彼女の霊廟とされる建築物。実際には殉教者記念礼拝堂である可能性が高い。内部天井部分に創建当時のモザイクがほぼそのまま残っている。
; 大聖堂付属(正統派)洗礼堂
: ラヴェンナに残る最も古い建築物の
; [[サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂]]
: 元来は、大王テオドリックによって、大宮殿に隣接するかたちで建設された[[バシリカ]]である。聖堂の上部壁面には6世紀のモザイクがほぼそのまま残っており、テオドリックのものと思われる宮殿も描かれる。しかし
; アリウス派洗礼堂
: ニケア公会議により異端とされていたキリスト教[[アリウス派]]の洗礼堂。大王テオドリックによって建設された、現存する数少ないアリウス派の遺構である。<!--本来はサンスピリト聖堂に付属。 ここうろ覚え。-->第二次世界大戦の際、連合軍の上陸時に爆撃されたが、現在は修復されている。
; 大司教館礼拝堂
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: おそらく東ゴート王国の摂政アマラスンタによって起工され、ラヴェンナ司教マクシミアヌスが完成させたラヴェンナを代表する聖堂。殉教者記念礼拝堂である。内陣に、皇帝ユスティニアヌス1世と皇后テオドラをはじめとするモザイク画が残る。
; [[サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂]]
: ラヴェンナ司教マクシミアヌスによって、当時のラヴェンナの外港クラッシスに建設されたバシリカ。壁面のモザイクは失われているが、内部の空間構成はほとんど建設当時のままである。
== 登録基準 ==
{{世界遺産基準|1|2|3|4}}
== 関連項目 ==
* [[ローマ建築]]
* [[ビザンティン建築]]
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== 参考文献 ==
* シリル・マンゴー著・[[飯田喜四郎]]訳『ビザンティン建築』(本の友社) ISBN
* ジョン・ラウデン著・益田朋幸訳『初期キリスト教美術・ビザンティン美術』([[岩波書店]]) ISBN 978-4-00-008923-4
* 益田朋幸著『世界歴史の旅 ビザンティン』([[山川出版社]])ISBN
* 香川壽夫
{{イタリアの世界遺産}}
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