「ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Tribot (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
34行目:
[[1928年]]、[[コロンビア大学]]で学士号を取得したのち、[[シカゴ・トリビューン]]の特派員記者として[[ベルリン]]で働くうち、[[パラマウント映画]]のベルリン支部に入社して、[[ウーファ]]撮影所でドイツ製サイレント映画にアメリカの観客向けの映画に字幕をつける仕事をするようになった。それをきっかけとして、映画の脚本を書くようになり、1930年代には脚本家として活躍。
 
パラマウントから[[MGM]]に移籍し、[[1936年]]の『地獄への挑戦』では、マンキーウィッツは監督になることを望んだが、撮影所の重役で大物プロデューサーの[[ルイス・B・メイヤー]]からまず製作者として映画製作の経験を積むべきだと忠告され、製作者として手掛ける。以降はプロデューサーとして[[スペンサー・トレイシー]]主演の『[[激怒 (1936年の映画)|激怒]]』、[[エーリッヒ・マリア・レマルク]]原作の『三人の仲間』、[[キャサリン・ヘップバーン]]の『[[フィラデルフィア物語]]』『[[女性No.1]]』など大ヒット作を世に送り出し、敏腕プロデューサーとしての名をあげる。
 
[[1943年]]に[[ジュディ・ガーランド]]主演のミュージカル『踊る海賊』の映画化を企画したマンキーウィッツは、ガーランドと恋に落ちるも、当時すでに両方とも既婚者だったためにメイヤーの反感を買ってしまい、MGMに居られなくなったマンキーウィッツは[[20世紀フォックス]]に移籍、移籍第一作となった[[1944年]]の[[グレゴリー・ペック]]主演の『王国の鍵』では製作と脚本を担当した。
64行目:
* [[激怒 (1936年の映画)|激怒]] ''Fury'' (1936) - [[フリッツ・ラング]]監督
* [[フィラデルフィア物語]] - ''[[:en:The Philadelphia Story (film)|The Philadelphia Story]]'' (1940) - [[ジョージ・キューカー]]監督
* [[女性No.1]] - ''Woman of the Year'' (1942) - [[ジョージ・スティーヴンス]]監督
* 王国の鍵 ''The Keys of the Kingdom'' (1945)- [[ジョン・M・スタール]]監督