「栃錦清隆」の版間の差分

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=== 横綱昇進まで ===
* 初土俵を踏んだ1939年1月場所の4日目、[[双葉山定次]]が[[安藝ノ海節男]]に敗れて連勝が69で止まった「世紀の一番」を、結びの一番を取る兄弟子の[[鹿嶌洋起市]]の世話のために花道の奥にいて目撃した。「あの相撲をこの目で見られたことは、土俵人生を通じての財産だった」と後年まで語った。
* 新弟子時代、[[相模川佶延]]を贔屓にしていた[[尾上菊五郎_(6代目)|6代目尾上菊五郎]]に気に入られていた。後に菊五郎は「春日野部屋にいた『マムシ』<ref name="sengo"/><ref>エラの張った顔で眼光鋭く、一度食いついたら離さない相撲ぶりからそう渾名された。</ref>はどうしてる?」と聞き、幕内にいる栃錦がそうだと教えられて驚いたという。
* 兄弟子の[[付き人]]に付いていた時、年端もいかないうちからこき使われるのを見かねた春日野が、栃錦を自分付きにした。その食事の世話をしながら様々な訓話を聞かされた。栃錦の十両昇進が決まった時に春日野の指示で靴磨きをしていたが、関取にしか着用を許されない[[丹前|ドテラ]]を着ていることに気がついた春日野から一度は叱責されたものの、直後に「おお、すまん。お前(栃錦)はもう関取だったな」と言われたことがあった。
* 同門で自分より若い[[千代の山雅信]]に出世で追い越され、一時期は千代の山との稽古を嫌っていた。しかし、[[栃木山守也|春日野]]から「そういう力士と稽古しないでどうやって追い越すんだ?」と言われてからは、千代の山との猛稽古を展開した。後に千代の山の息子が歯科医になった時には、千代の山自慢の[[突っ張り]]を何発も顔に当てた影響で早く歯を失ったため、「ワシは昔、千代の山との稽古で歯をやられたから、ワシだけは安く診てもらわないとな」と笑っていた。千代の山が引退して九重を襲名後、一門から九重が破門されても決して険悪にならず、栃錦が理事長として役員待遇を新設した際には九重を指名した。