「生き埋め」の版間の差分

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[[ファイル:LaBreaTarPits01.JPG|thumb|right|240px|[[ラ・ブレア・タールピット|ランチョ・ラ・ブレアのタールピット]]<br />天然[[アスファルト]]の沼に落ちた動物は這い上がることができずに生き埋めとなり、時を経て[[化石]]となる。現地ではそういった地質時代の悲劇的光景が{{仮リンク|ロサンゼルス郡自然史博物館|en|Natural History Museum of Los Angeles County}}の手になる模型によって復元されている。写真にあるのは[[アメリカマストドン]]の家族。]]
土中、土砂中に埋没することを指す場合が多いが、元より、「埋没してしまうような環境中に生きたままで埋没する」ことが「生き埋め」であって、古代の動物や古代人が[[タールピット]]<ref>[[アメリカ合衆国]]の[[ロサンゼルス]]市内に残る[[ラ・ブレア・タールピット|ランチョ・ラ・ブレアのタールピット]]が[[地質学]]上で最も有名。</ref>(■右に画像あり)や伝説的な[[底なし沼]]<ref>[[古代エジプト]]の兵士が軍団ごと消えたとされるセルボニス沼(英語名:Serbonia)が有名。</ref>に呑み込まれて落命したのもそれであるし、近現代の例で言えば、[[トラックミキサ|ミキサー車]]の中や工事現場にある生[[コンクリート]]の海とか、工場内の[[小麦粉]]やテレビ番組の撮影用に細かくされた[[発泡スチロール]]などといった[[粉粒体]]の山、この種の埋没しやすい物の中に落ちて生き埋め状態になったという話を見聞きすることは大して珍しくもない。
 
また、埋没させる物に直接触れない状況下での生き埋めもある。長くは生存し得ない閉鎖空間内に被害者がいる状況で、空間ごと埋まってしまう場合も、生き埋めと言う。逃げ込んだ場所がその空間を保ったまま周囲ごと埋まってしまうことは、動物たちが生きる山野でも起こり得る事態であるが、施設や乗り物を始めとする閉鎖空間であふれかえっている現代都市社会ともなると頻繁に起こる状況である。加えて、後述する[[犯罪]]と[[刑罰]]の分野ではあるが、閉鎖空間内に被害者を閉じ込め、その空間ごと埋めてしまうという行為も生き埋めである。
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'''[[災害]]や[[事故]]として起こる生き埋め'''については、該当記事内にて解説する。
 
[[自然災害]]による生き埋めについて本項で特筆するならば、[[ヴェスヴィオ山]]の大噴火によって滅びた[[古代ローマ]]の都市[[ポンペイ]]の話であるが、この都市の人々(■右に画像あり)のほとんどは、[[火山灰]]や[[火山ガス|火山性有毒ガス]]、[[火砕流]]等によって死に至った後に埋没したのであるから、その意味で厳密には「生き埋め」ではない(※平素の表現では、即死したと同時に遺体が埋没した場合も「生き埋め」と呼ぶことは珍しくない。火砕流に呑み込まれた犠牲者は時速100キロメートル以上の速さで迫りくるそれに襲われて即死すると同時に一瞬にして街ともども埋没している)ものの、避難する機会を逸して都市に留まったがために屋外にも出られず建物ごと火山灰に埋まっていった人々も多く、彼らの最期は「生き埋め」と呼ぶにふさわしいものであった。
 
また、雪に埋まる、積もった雪の中に屋根などから落ちて生き埋めになって[[凍死]]に至る、などといった雪に原因する生き埋め事故は山岳部ばかりでなく人里でも頻繁に起こる。
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[[フランス]][[軍人]][[トマ・ロベール・ブジョー]]配下のサンタルノ大佐は、[[1845年]]、[[アルジェリア]]での戦いで洞窟に逃げ込んだ[[アラブ人]]を全て生き埋めにして殺害し、その後の2年間、[[大量虐殺]]を続けた。
[[1990年代]]の[[湾岸戦争]]においては、ドーザーブレードを装着した[[アメリカ陸軍]]の装甲[[ブルドーザー]]「[[M9ACE]]」(■右に画像あり)によって[[イラク]]軍の[[塹壕]]を埋め立てる作戦が行われた結果、逃げ遅れたイラク軍兵士の一部が生き埋めとなったという報告がある(''cf.'' [[塹壕#現代の歩兵と塹壕]])。また、イラクの政治家[[アリー・ハサン・アル=マジード]]は、湾岸戦争停戦後、自国南部で[[シーア派]]住民による反政府蜂起([[1991年]]インティファーダ)が起こると苛烈極まる弾圧の指揮を執った。捕らわれた住民は[[拷問]]を受けた後、戦車で轢き殺されたり、生き埋めなどの残虐な方法で殺された(''cf.'' [[アリー・ハサン・アル=マジード#湾岸戦争後]])。
 
[[9世紀]]([[平安時代]]初期)日本の[[蝦夷]]の軍事指導者であった[[アテルイ]]は、[[ヤマト王権#大和朝廷|大和朝廷]]軍の[[坂上田村麻呂]]に敗れて降伏し、処刑されたが、故郷に残っていた妻子や残党は大きな穴を掘らされて生きながら埋められ、惨殺されたと伝えられる。説ではあるが、生き埋めにした上に土をかけ、素直に降伏して奴隷となった者たちにその上から踏みつけさせたといい、これが今日に伝わる[[ねぶた]]祭りの由来であるとしている。