「ヒャルマル・シャハト」の版間の差分

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|所属政党 = [[ドイツ民主党]](1926年離党)
|称号・勲章 =
|世襲の有無 =
|親族(政治家) =
|配偶者 =
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[[ニュルンベルク裁判]]にかけるために1945年9月に他の被告人達とともにニュルンベルク刑務所へ移送された。シャハトは第一起訴事項「侵略戦争の[[共同謀議]]」と第二起訴事項「[[平和に対する罪]]」で起訴された。
 
因みに、ニュルンベルク刑務所付心理分析官[[グスタフ・ギルバート]]大尉が、開廷前に被告人全員に対して行った[[ウェクスラー成人知能検査|ウェクスラー・ベルビュー成人知能検査]]によると、シャハトの[[知能指数]]は143で、全被告人中では一番知能の高い人物であるとのことであった(ただシャハトは高齢であることを考慮されて実際の素点の数値より15から20多く出されている。調整前の素点では141の[[アルトゥル・ザイス=インクヴァルト]]が一位であった)<ref>[[レナード・モズレー]]著、[[伊藤哲]]訳、『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 下』、[[1977年]]、[[早川書房]] 166頁</ref><ref name="パーシコ上166">パーシコ、上巻166頁</ref>。
 
シャハトは他の被告と関わりたがらず、自ら進んで孤立していた。「何の罪も犯していない」自分が被告人にされたことについてシャハトは「[[ロバート・ジャクソン (法律家)|ジャクソン]]氏は、裁判が公正である事を示すために一人無罪になる者を入れようとして、私を被告人にしたのだよ」などと語っていた<ref name="パーシコ下182-183">パーシコ、下巻182-183頁</ref>。
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釈放後は[[デュッセルドルフ銀行]]で[[ブラジル]]、[[エチオピア帝国]]、[[インドネシア]]、[[イラン帝国]]、[[エジプト]]、[[シリア]]、[[リビア]]など発展途上国の経済・財政に関するアドバイザーとして活動した<ref name="ヴィストリヒ94"/>。1970年にミュンヘンで死去した<ref name="ヴィストリヒ94"/>。
 
== 人物 ==
[[File:Hjalmar Schacht.jpg|180px|thumb|ヒャルマル・シャハト]]
因みに、ニュルンベルク刑務所付心理分析官[[グスタフ・ギルバート]]大尉が、開廷前に被告人全員に対して行った[[ウェクスラー成人知能検査|ウェクスラー・ベルビュー成人知能検査]]によると、シャハトの[[知能指数]]は143で、全被告人中では一番知能の高い人物であるとのことであった(ただシャハトは高齢であることを考慮されて実際の素点の数値より15から20多く出されている。調整前の素点では141の[[アルトゥル・ザイス=インクヴァルト]]が一位であった)<ref>[[レナード・モズレー]]著、[[伊藤哲]]訳、『第三帝国の演出者 ヘルマン・ゲーリング伝 下』、[[1977年]]、[[早川書房]] 166頁</ref>。これについてシャハトは「まさに私の予想したとおりになったな」と自慢げに語った<ref name="パーシコ上166">パーシコ、上巻166頁</ref>。
 
シャハトはプライドが高く、ニュルンベルク裁判で戦犯として告訴されたことについて「他の被告連中は罪人だが、私は違う」と強く反発した。事あるごとに自分がいかにヒトラーやナチスと無縁であるかを強調した。特に1934年と1935年の訪米の事をよく話し、[[フランクリン・ルーズヴェルト|ルーズヴェルト]]と親しく会談したことや、「ナチスに目を付けられる危険を冒してアメリカ・ユダヤ人の有力者たちと会見して彼らの前で演説した」ことを誇った{{sfn|ゴールデンソーン|20051|p=154-156}}。
 
ニュルンベルク裁判中にレオン・ゴールデンソーンから受けたインタビューの中でヒトラー政権に参加した理由について、経済的混乱の中でドイツ国民は中産階級政党も社会民主党も信じなくなり、選択肢は共産主義かヒトラーしかなくなっていたとしたうえで次のように語った。「共産党員は神は無意味で不合理と吹聴し、無理からぬ国民感情をないがしろにして国際主義を唱道した。対してヒトラーは共産主義が否定した二つの物、国家の尊厳と宗教を擁護しようとした。」「最終的にヒトラーは宗教に背信し、国民主義を返上することによって全ての人を裏切り、自分の理念さえも裏切ったので、今となっては皮肉なことだが、当時は誰もがヒトラーを信じた。1932年7月にはヒトラーが全議席の四割を獲得した。ドイツの歴史上一つの政党がこれほどの議席を獲得した例はなかった。」「その時点でヒトラーの悪人ぶりを知る者はいなかった。彼が国民を裏切るとは誰も思っていなかった。」「私について言えば民主的な思想を持ち、民主的な手法や議会運営に慣れていただけに選択の余地はなかった。」「1932年7月にヒトラーが当選すると彼が合法的に国民から選ばれたという事実を受け入れるしかなかった」「ヒトラーなんかお呼びじゃないと言ってしまえば私は一民間人の立場に引かざるをえなかっただろう。私は祖国のために働きたかったのだ。」「引退して一市民として暮らしたり、彼一人に権力を握らせておいたりしたら、彼の行動にブレーキをかけることなどできない。それなら現場にいて彼の行く手を阻む方がずっと利口ではないか」「彼の政策が非道徳的であることは明らかだったし、私は1935年頃から疑念を持ち始めていた。そして教会の弾圧、[[ゲシュタポ]]、ユダヤ人問題といった非合法的な事柄や一般的良識に反するその他諸々に関して機会あるごとにヒトラーに抗議した。公私の区別なく、本人に面と向かって反論したのだ。信じてもらえるかは別として、私はそれをやった唯一の人間だ。聖職者、政治家、科学者、実業家の誰一人として私が公私にわたって彼に言ったことを彼に言おうとしなかった。」「私は彼が戦争をしようとしていると察知して経済相を辞任した。ヒトラーは無任所大臣のポストに留まるなら辞表を受理すると言った。彼は自分の犯罪的な政府と国際的に有力で信用される経済学者・銀行家 ―つまり私― との間に対立がないことを世界にアピールしたがっていたのだ。私がこの条件を呑まねば彼は辞表を受理しなかった。さらに私は国立銀行から国への融資も停止した。それ以上私になにができたのだ。どこが問題だというのかね。」{{sfn|ゴールデンソーン|20051|p=162-168}}。
 
ユダヤ人迫害については次のように述べた。「私は人種的迫害には賛成しなかった。私が経済相と国立銀行総裁を務めていた1933年から1938年まではユダヤ人が経済や金融で不利益を被ることはなかった。その間もナチスはユダヤ人を標的とする迫害や略奪を行っていたが、それは私の管轄外なので責任は負えない。私はユダヤ人の友人をドイツ国外に逃がすことで助けていた。ただユダヤ人問題はいくつか原因があった。もちろんヒトラーは常に反ユダヤ主義者だったが、彼が政権を獲る直前のドイツではユダヤ人が数々の金融不正事件に関与していた。しかもユダヤ人は東方から続々とやって来てドイツに定住し、ビジネスを展開中だった。そのうえユダヤ人の中にはおびただしい数の[[ドイツ共産党|共産党員]]がいた。」「私は部下である一人のユダヤ人に命じてドイツのユダヤ人中央委員会に伝言を届けさせた。その内容は中央委員会がユダヤ人の共産党入党を禁じる決議案を採択することを求めたものだった。この部下は数日後に戻ってきたが、残念ながらユダヤ中央委員会は私の勧告にしたがって行動する気はなかった。」{{sfn|ゴールデンソーン|20051|p=156-157}}。
 
ここまで聞いたゴールデンソーンが「ある組織がそのメンバーに政治思想の自由を禁じるのは市民的自由への侵害であると思う。貴方のユダヤ中央委員会への勧告はそもそもファシズム的ではないか」と追及すると、シャハトはむっとした様子になって「もちろん私は信仰の自由と同じく政治思想の自由も認めている。しかし[[共産主義]]は例外だ。これだけは認めてはならない。私がやろうとしたことはユダヤ人が共産主義に染まらないようにしたに他ならない」「私が不安なのは君たちアメリカ人が先の大戦と同じ轍を踏むのではないかということだ。つまり君たちがドイツを引き揚げ、ヨーロッパを後にすれば[[ソビエト連邦|ソ連]]が好き勝手にふるまうようになるということだ。そうなれば民間事業や個人の自由はナチ党政権と同程度に侵害されるだろう。恐ろしい!」と返答した{{sfn|ゴールデンソーン|20051|p=157}}。
 
 
==邦訳著書==
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:博士論文を公刊したもの。原著1900年
== 参考文献 ==
*[[レオン・{{Cite book|和書|last=ゴールデンソーン]]著([[:en:Leon| Goldensohnfirst=レオン|en]])、translator=[[小林等]]・[[高橋早苗]]・[[浅岡政子]]訳『|editor=[[ロバート・ジェラトリー]]([[:en:Robert Gellately|en]])編|year=2005|title=ニュルンベルク・インタビュー( )』、|publisher=[[河出書房新社]]、[[2005年]]|isbn=978-4309224404|ref=harv}}
*[[林健太郎 (歴史学者)|林健太郎]]著『ワイマル共和国 ヒトラーを出現させたもの』、[[1963年]]、[[中公新書]]、ISBN 978-4121000279
*[[ウェルナー・マーザー]]著『ニュルンベルク裁判:ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』[[西義之]]訳、[[TBSブリタニカ]]、1979年
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*[[阿部良男]]著、『ヒトラー全記録 :20645日の軌跡』、[[2001年]]、[[柏書房]]、ISBN 978-4760120581
*[[ロベルト・ヴィストリヒ]]([[:en:Robert S. Wistrich|en]])著、[[滝川義人]]訳、『ナチス時代 ドイツ人名事典』、[[2002年]]、[[東洋書林]]、ISBN 978-4887215733
*[[レオン・ゴールデンソーン]]著([[:en:Leon Goldensohn|en]])、[[小林等]]・[[高橋早苗]]・[[浅岡政子]]訳『ニュルンベルク・インタビュー(上)』、[[河出書房新社]]、[[2005年]]
*{{Cite book|和書|author=[[栗原優]]|date=1997年(平成9年)|title=ナチズムとユダヤ人絶滅政策 <small>ホロコーストの起源と実態</small>|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=978-4623027019|ref=栗原(1997)}}
*Charles Hamilton,"''LEADERS & PERSONALITIES OF THE THIRD REICH VOLUME1''",R James Bender Publishing,1996,ISBN 9780912138275([[英語]])