「東洋史」の版間の差分

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日本における東洋史の概念は、[[大日本帝国|帝国時代]]([[1868年]]~[[1945年]])に成立したと目されている。ヨーロッパにならった高等教育機関の設置の際、歴史学の分野は国史、東洋史、西洋史の三部門に分けられた。[[江戸幕府|徳川時代]]([[1603年]]~[[1868年]])までは、[[漢学]]の中で[[中国の歴史|中国]]や[[朝鮮の歴史|朝鮮]]など[[東北アジア]]の歴史研究が行われており、これが帝国時代になると近代的大学制度に包含されるときに東洋史に分類された。ここに日本における東洋史の複雑な性格が生まれることになる。
 
すなわちヨーロッパ的意味合いをもつ「東洋史」と従来の日本の[[中国史]]を中心とする東アジア史の複合する歴史分野となったのである(ただし、[[中東]]史の中でも、特に、[[メソポタミア]]と[[古代エジプト]]の文明を中心とした[[オリエント学|古代オリエント]]から、[[アレクサンドロス大王]]の東征と[[ヘレニズム]]世界の成立、[[ローマ帝国]]による中東の支配、[[キリスト教]]の成立とその普及、ローマ帝国分裂後の[[東ローマ帝国]]と[[ササン朝]]が抗争の時代まで、即ち[[イスラーム]]成立以前の歴史は、ヨーロッパの[[古代ギリシア]]史・[[古代ローマ]]史と相互に関連しあっ、また、[[キリスト教]]の成立・普及の歴史とも関連しているほか。史料も、[[ヘロドトス]]の『[[歴史]]』などのように[[ギリシア語]]・[[ラテン語]]の史料文献に基づくことが多いために、日本では東洋史の枠組みには入らず[[考古学]]や[[西洋史]]の枠組みに入ることが多い)。もちろん日本においては東アジア史研究の蓄積と人材が圧倒的に分厚く、[[インド]]や[[中央アジア]]、[[西アジア]]、[[北アフリカ]]については[[第二次世界大戦]]前までほとんど顧みられることなく、わずかにヨーロッパにおける研究が移入されるなど細々と行われたに過ぎなかった。結果的に東洋史とは中国史を中心とする非西洋、非日本の歴史分野全般を扱うものとなったのである。[[東京大学]]と[[京都大学]]及び、帝国時代の[[東方文化学院]]の東西2ヵ所の研究所の流れをくむ[[東京大学東洋文化研究所]]と[[京都大学人文科学研究所]]が研究の中心となってきた。代表的研究者に[[那珂通世]]や[[内藤湖南]]、[[白鳥庫吉]]、[[桑原隲蔵]]、[[羽田亨]]、[[宮崎市定]]などがいる。資料収集という面では世界最大規模の東洋学関連資料をもつ[[東洋文庫]]や[[京都大学人文科学研究所附属漢字情報研究センター]](旧称・同 東洋学文献センター)が代表的である。
 
[[エドワード・サイード]]による[[オリエンタリズム]]論の登場以降、「東洋」という枠組みが問題とされるに従って、日本でも「東洋史」は自明の存在とはみなされなくなった。従来「東洋史」として一括された歴史は[[東アジア史]]、[[東南アジア史]]、[[中央アジア史]]、[[西アジア史]]、[[北アフリカ史]]などの地理的[[地域史]]や[[イスラーム世界史]]、[[インド洋世界史]]、[[中央ユーラシア史]]のような概念的地域史の枠組みへと移行しつつある。もはや「東洋史」は学問的枠組みというより、大学における講座や学会名などで伝統的に引き継がれている名称となりつつあるといってよい。