「鹿児島城」の版間の差分

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[[江戸時代]]初期に[[島津氏]]によって築かれた、上山城跡である城山とその麓に築かれた鶴丸城で構成された[[平山城]]である。[[平城]]や[[山城]]とする説もある。
 
城山は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]には「上乃山城」および「上山城」という上山氏の居城であったが、後に島津氏に明け渡され、上山氏は[[桜島]]に移っている。その後島津氏は城山の東麓に屋形を築いて居城した。麓の屋形(本丸、二ノ丸、出丸)には石垣が築かれたが、公称「77万石」の大名の城としては[[天守]]など高層建築や高石垣などは築かれず、[[明治時代]]に城跡を訪れた本富安四郎は著書『[[薩摩見聞記]]』で「不思議」と評している。これには[[江戸幕府]]に対する恭順の意味があったとされる。その代わりに、島津氏は[[中世]]式の[[山城]]を各地に残し、113区画をそれぞれ家臣に守らせる[[外城制|外城制度]]を行っていたとされる。
 
本城である鹿児島城は北に本丸、南に二の丸が位置していたが、単純な構造で防御には問題のある「屋形造」の城であった。そのため裏山である城山を籠城のための「後詰めの城」としていた。初代の城代として[[島津歳久]]の孫の[[島津常久|常久]]が任命されて居住していたが、常久が早世した後は次の城代は任命されず、城山自体が聖域として立入禁止区域となった。