「マグナ・カルタ」の版間の差分

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{{君主主義}}
== 成立 ==
マグナ・カルタは[[ラニーミード]]において[[1215年]][[6月15日]]に制定。[[ジョン (イングランド王)|ジョン王]]のマグナ・カルタは[[教皇]][[イノケンティウス3世]]の勅令により無効とされたが、その後[[1225年]]に作られた[[ヘンリー3世]]のマグナ・カルタの一部が[[現行法]]として残っており、現在でも[[イギリス]]において[[イギリスの憲法|憲法]]を構成する法典の一つである。
 
写しが大量に書かれたため<ref>[http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPKBN0L70DM20150203 マグナ・カルタ写本4点を初の同時展示、発布800周年で] - [[ロイター]](2015年 02月 3日 15:22 JST版 2015年2月3日閲覧)</ref>、各地に残っているが、[[イングランド]]内に現存するオリジナルの文書は4通である
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王といえど[[コモン・ロー]]の下にあり、古来からの[[慣習]]を尊重する[[義務]]があり、[[権限]]を制限されることが文書で確認されたという意味が大きい。王の実体的権力を[[契約]]、[[法]]で縛り、[[権力]]の行使は[[デュー・プロセス・オブ・ロー]]によることを要するといった点は[[現代]]に続く「[[法の支配]]」、[[保守主義]]、[[自由主義]]の原型となった。
 
制定直後、実施にあたり混乱があり、更にジョンを支持する[[教皇|ローマ教皇]][[インノケンティウス3世 (ローマ教皇)|インノケンティウス3世]]がイングランドの貴族や[[国民]]の動きを非難してイングランド国王は[[神]]と[[教会]]以外の約束に縛られるものではないとマグナ・カルタの廃棄を命じた。翌年にジョンが死ぬと[[フランス王国|フランス]]の[[ルイ8世 (フランス王)|ルイ王太子]]がロンドンへ侵攻([[第一次バロン戦争]])、マグナ・カルタは[[ヘンリー3世 (イングランド王)|ヘンリー3世]]の摂政[[ウィリアム・マーシャル (初代ペンブルック伯)|ウィリアム・マーシャル]]の元で再確認され、バロン戦争を終結させた。しかし、ヘンリー3世はその後この憲章を守らなかったため、たびたび再確認された。またその際に、条文のいくつかは修正された。現在有効とされているものは[[1225年]]に修正されたものである。その後、廃止されないまま忘れられており、[[中世]]の時代の中でほとんど重視されなくなった。[[ウィリアム・シェイクスピア]]の史劇『ジョン王』にはマグナ・カルタ制定のエピソードが登場しないことにも、この軽視が窺われる。
 
== 構成 ==
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[[Category:人権法]]
[[Category:中世のイングランド]]
[[Category:ラテン語の語句]]