「陳勝・呉広の乱」の版間の差分

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それから、陳勝は兵卒たちを召集して演説した。
:「俺たちは大雨に降られ、最早期日には間に合わない。期日への遅れは問答無用で斬首だ。仮に殺されないとしても、労役で死ぬのは10人中6,7人であり、労役で死なずとも帰途で死ぬかもしれない。どうせ死ぬのならば、名を残して死ぬべきだ。もとより人間に王侯将相の種族の別があろうか」。
兵卒たちはこれを聴き、一斉に同意を示した(大沢郷起義)
 
この時に民衆の支持を集めるために陳勝は[[扶蘇]]、呉広は[[項燕]]を名乗った。始皇帝の長子にして悲劇の皇太子である扶蘇と旧[[楚 (春秋)|楚]]の英雄である項燕は庶民に人気があり、多くはその死を知らずまた信じていなかった。二人はそれを利用した。