「バルカン連邦構想」の版間の差分

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バルカン諸国を政治的に統一しようとする試みは歴史上いくつかあった。ロシア皇帝[[エカテリーナ2世]]の時代、[[オスマン帝国]]下のバルカン半島においてエカテリーナの息子を皇帝とする計画から、ギリシャ独立の精神的支柱となった[[リガス・ヴェレスティンリス・フェレオス]]による計画があったが、いずれもビザンツ帝国の再興を狙ったものであり、結局は失敗に終わっている。
 
また、他にも[[ブルガリア人民共和国|ブルガリア]]の[[ゲオルギ・ディミトロフ]]らによって結成された[[バルカン社会主義連邦]](にバルカン共産主義連邦に改称)や[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア]]の[[チトー]]と、[[ブルガリア人民共和国|ブルガリア]]の[[ゲオルギ・ディミトロフ]]が進めた計画が知られている。しかし、前者は[[コミンテルン]]に解散され、後者は[[1948年]][[6月]]に起きた[[ユーゴスラビア]]の[[コミンフォルム]]追放によって、これら計画構想は挫折した。[[1953年]]にユーゴスラビアで[[ギリシャ]]と[[トルコ]]といった[[NATO]]加盟国と[[:en:Balkan Pact (1953)|バルカン三国同盟]]と呼ばれる軍事協定が締結されたが、[[キプロス紛争]]によって事実上瓦解した。
 
== 関連項目 ==