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これ以降、関西地区の各メディアの番組に多数出演するようになる。1980年代の土曜昼に放送されていた『[[ノンストップゲーム]]』(関西テレビ)では司会として、[[横山ノック]]や[[桂文珍]]と共に人気を博す。1983年、フジテレビ主催の「[[日本放送演芸大賞|第12回 日本放送演芸大賞]]」で、最優秀ホープ賞を受賞している(ホープ賞は[[コント赤信号]]、[[片岡鶴太郎]]、[[桂文福]]、[[斎藤ゆう子]]、[[三遊亭小遊三]]、[[山田邦子]]で、大賞は[[タモリ]]が受賞しているなど、逸材が揃っていた)。
 
1980年代以降、[[クイズ番組]]に司会および解答者として多く出演(『[[クイズのりもの講座]]』、『[[わいわいスポーツ塾]]』、『[[マジカル頭脳パワー!!]]』、『[[スーパークイズスペシャル]]』、『[[クイズ!純粋男女交遊]]』など)、解答者の意見を一方的に遮断する威圧的な司会術で人気を博す。特に『マジカル』では、[[パネラー]]達との絶妙なやりとりが人気となり、ピーク時には毎週20%を超え、時には30%台に達することもあるなど驚異的な高視聴率番組となり9年間という長期続くロングラン番組となった。期間が長かったこともあり最終回では通常通りこなした司会であったが、打ち上げでは号泣したという<ref>ゲスト出演した「[[明石家マンション物語]]」1999年11月放送の今田耕司の暴露より。<ref/ref>。番組内容によって[[近畿方言|関西弁]]と[[標準語]]を使い分け、自身が司会を務めるクイズ番組では標準語を使うことが多かった。『マジカル』終了後は、クイズ番組の司会者としての仕事はあまりない<ref>2012年新春放送の『[[嵐にしやがれ]]』2時間スペシャルで『マジカル』が復活した際には、司会をパネラーとして出演していた[[中山秀征]]と担当した。</ref>。元スポーツ選手で引退後に芸能界に進出し、クイズ・バラエティ番組の司会者で成功したのは板東ただ一人であり、「元野球選手で天下を取った男」として一役全国区となった。
 
1984年に[[児玉清]]が盲腸の破裂による急性腹膜炎で入院した結果、司会を務める『[[パネルクイズ アタック25]]』(朝日放送)に出演できなくなった時、板東が代理司会として10月14日と28日の2週にわたって抜擢されたことがある。その他、『[[クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!]]』(日本テレビ)でも、当時胃ガンで休養→死去した[[逸見政孝]]の代理司会を担当したこともある。板東は後年『[[クイズ!紳助くん]]』(朝日放送)で行われた『アタック25』のパロディに解答者として出演している。