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| 時代 = [[安土桃山時代]]から - [[江戸時代]]前期
| 生誕 = 不詳
| 死没 = [[1604年]]([[慶長]]9年)
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'''林 一吉'''(はやし かつよし)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]。[[土佐藩]][[家老]]で、[[土佐国]][[高岡郡]]窪川城主。家禄は5,000石。
 
== 年譜生涯 ==
*[[尾張国]]の[[戦国大名]]・[[織田信長]]の筆頭家老[[林秀貞]]の三男として[[美濃国]][[岐阜城]]下に生まれる。幼名は'''傳助'''(でんすけ)。[[諱]]ははじめ'''勝吉'''
[[諱]]は初め勝吉、のち[[山内一豊]]より、偏諱「一(かつ)」を賜い「一吉(かつよし)」と改める。幼名は傳助(でんすけ)。字は傳左衛門、また'''林伊賀守'''と称し、のち「山内」の称号を賜い'''山内伊賀守'''と改めた。
 
*[[織田信長]]の筆頭家老[[林秀貞]]の三男として[[美濃国]][[岐阜城]]下に生まれる。
父同様、織田信長に仕えるが、[[1580年]]([[天正]]8年)8月18日、父・秀貞と共に信長によって追放される。[[山城国]]に籠居していたが、[[1582年]](天正10年)6月2日、[[明智光秀]]による[[本能寺の変]]によって信長が討たれると、[[播磨国]]姫路に赴いて織田家臣の[[山内一豊]]に仕えた。これは一豊とは旧知の間柄で、「互いにどちらか、先に領主と成った方に仕えよう」<ref>『窪川林家録』に「何れにても国郡を早く得たらん方へ頼るべきとの御契約ありし」とある。</ref>と約束をしていたためといわれる。一豊から偏諱を賜い'''一吉'''(かつよし)と改める。また'''林伊賀守'''と称した。
*[[1580年]]([[天正]]8年)8月18日、父の林秀貞と共に信長から追放される。
 
*山内一豊とは旧知の間柄で、「互いにどちらか、先に領主と成った方に仕えよう」<ref>『窪川林家録』に「何れにても国郡を早く得たらん方へ頼るべきとの御契約ありし」とある。</ref>と約束をしていたが、信長の存命中は追放の身であったため、[[山城国]]に籠居していた。その後[[1582年]](天正10年)6月2日、京都[[本能寺]]で信長が[[明智光秀]]の謀反([[本能寺の変]])により死去したことにより、[[播磨国]]姫路に赴いて山内一豊に仕えた。
*以後家臣として活躍し、[[1585年]](天正13年)[[近江国]][[長浜城 (近江国)|長浜城主]]となった山内一豊に、近江に移る。[[1590年]]8月(天正18年7月)、[[豊臣秀吉]]の[[北条氏政]]征伐の時、江州長浜より出陣し、櫓を攻め取り功名を挙げる。同年、一豊が[[遠江国]][[掛川]]移封に伴い、遠江国で500石を賜った
 
*[[1590年]]8月(天正18年7月)[[豊臣秀吉]]の[[北条氏政]]征伐の時、江州長浜より出陣し、櫓を攻め取り功名を挙げる。
*[[1600年]]([[慶長]]5年)、[[陸奥国|奥州]][[会津]]の[[会津征伐|上杉征伐]]には嫡子・[[林勝久|勝久]]を出陣させ、自らは[[寺村重友]]と共に留守居役となる(勝久はそのまま[[関ヶ原の戦い]]にも従軍した)。[[1601年]](慶長6年)、山内主君・一豊の土佐御入の時9万8000石に封じられると、「山内」の称号と土佐国高岡郡仁井田・窪川両郷を賜い、代官兼、窪川初代家老職を仰せ付けられる。その後、窪川城を修築して城下町の基礎を作り、荒野を開拓させ新田開発に尽力するした
*同年、山内一豊の[[遠江国]][[掛川]]移封に伴い、遠江国で500石を賜う。
 
*[[1600年]]([[慶長]]5年)、[[陸奥国|奥州]][[会津]]の[[上杉景勝]]征伐には嫡子[[林勝久|勝久]]を出陣させ、自らは[[寺村重友]]と共に留守居役となる。勝久はそのまま[[関ヶ原の戦い]]にも従軍した。
*[[1604年]](慶長9年)、死去。
*[[1601年]](慶長6年)、山内一豊の土佐御入国の時、「山内」の称号と土佐国高岡郡仁井田・窪川両郷を賜い、代官兼、窪川初代家老職を仰せ付けられる。その後、窪川城を修築して城下町の基礎を作り、荒野を開拓させ新田開発に尽力する。
*[[1604年]](慶長9年)卒去。
 
== 一族 ==