「中国法制史」の版間の差分

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中国最初の法律を作ったのは、[[舜]]であるとも、[[夏 (三代)|夏]]の[[禹]]が定めた『禹刑』であるとも言われているが、いずれも伝説の範疇である。だが、伝説とされる帝王達が悪姦を倒すために軍を動員して戦いに臨むなど、その初期においては法と刑罰と軍事が極めて近い関係であったことを示す記録が残されている。
 
===周(西周春秋戦国時代)===
[[周|西周]]時代には[[宗族制度]]を重視して'''「礼は庶人に下らず、刑は大夫に上らず」'''と言われて(『[[礼記]]』)刑罰は庶民を対象とするのが原則であったが、実際にはその限りではなかった。<br />西周中期に王権が揺らぎ始めると[[穆王 (周)|穆王]]が『呂刑』を定めたものの、三千条にも及び却って諸侯や民心が離れたと言われている。<br>実質上国内が諸侯によって分割された[[春秋時代]]に入ると宗族制度が崩壊して、社会矛盾が激しくなる中で[[鄭]]の宰相であった[[子産]]が『参辟』と呼ばれる史上初の本格的な[[成文法]]を定めて、青銅器にその文面を鋳込んで官民ともに適用される事を告知したのである。当時最も優れた政治家と認められていた子産が率先して周王朝の国家理念ともいえる宗族の伝統を無視する法制を定めた事で[[羊舌キツ|叔向]]・[[孔子|孔丘]]と言った優れた人々が彼に対して批判を寄せたがこの流れは各国に広がった。<br />[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]になって登場した[[法家]]は法律による統制を重視する思想集団であり、その祖は[[魏 (戦国)|魏]]に仕えた[[李克]]である。李克は諸国の法を纏めた『法経』を編纂し、これを持って魏を強国としたと伝えられる。しかし『法経』の存在には疑問が多い。ただ李克が法を持って国政改革の柱としたことは事実のようである。
 
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==中世==
===三国南北朝時代===
[[三国時代 (中国)|三国時代]]に入って最初に本格的な法律を制定したのは、[[蜀]]の[[諸葛亮]]である。彼は[[法正]]らとともに'''「蜀科」'''という法律を制定した。その内容は今日では不明であるが、厳格であった一方で公正に定められていたために、罪人達もこれを恨む事がなかったと言われている。遅れて[[魏 (三国)|魏]]でも法律編纂が図られたが、その際に肉刑復活を主張する[[陳羣]]と反対する[[王朗]]が激しい論争を行った。
 
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===五代===
[[五代十国時代|五代]]の諸王朝では[[後漢 (五代)|後漢]]以外の王朝がいずれも法典を作成した。その中でも、[[後周]]の『大周刑統』がよく知られている。全体的に乱世を反映して厳格かつ残虐な法令が定められた。
*[[後梁]] - 『大梁新定格式律令』
*[[後唐]] - 『新集同光刑律統類』
*[[後晋]] - 『天福雑勅』
*[[後周]] - 『大周編続勅』・『大周刑統』
**[[南唐]]([[五代十国時代|十国]]) - 『升元格』
 
===宋代===
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1979年から1992年までは、社会主義法の枠内で法秩序を再建する一方、経済改革・対外開放(改革開放)を実現する法システムが模索された<ref name="kuniya92">國谷(2011年)92ページ</ref>。1987年12月の中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議は、文革期から続く混乱を収拾して秩序を回復することに傾注し、過渡期階級闘争から社会主義的現代化への党の路線を転換した<ref name="kuniya92"/>。改革開放が基本政策となり、法秩序の再建が優先課題となって20年ぶりに立法に力が入れられるようになった<ref name="kuniya92"/>。党11期3中全会前、1978年3月に憲法が改正されているが(78年憲法)、この憲法改正は文革路線を認める過渡的な性格のものだった<ref name="kuniya93">國谷(2011年)93ページ</ref>。したがって党11期3中全会後の新たな路線を推進し保障する立法は、1979年7月の7件の法律から始まっている<ref name="kuniya93"/>。それらは2つに分類される。第1のグループは、人民法院組織法、人民検察院組織法、そして刑法や刑事訴訟法の制定に象徴されるように、国内的に法秩序を再建しようとする立法である<ref name="kuniya93"/>。そこでは、当時存在していたソ連・東欧の社会主義諸国および1950年代の中国の法理論や法制度を継受している<ref name="kuniya93"/>。法制建設の要となる中華人民共和国憲法(82年憲法=現行憲法)は、オーソドックスな社会主義法の枠組みを維持し、「公有制」、「計画経済」、「按労分配」、そして「中国共産党の指導」という社会主義の原則を掲げた<ref name="kuniya93"/>。第2のグループは、中外合資経営企業法に代表されるように、対外的に直接投資の受け皿としての法を整備する立法である<ref name="kuniya93"/>。中外合資経営企業法は、1979年当時社会主義国としては初めて、資本主義国から直接投資を受け入れる合弁法であった<ref name="kuniya93"/>。1980年代には、対外開放を促進する法システムが、国内法システムとは切り離して形成されるようになり、経済特別区が設置され、商標法、[[中華人民共和国専利法|専利法]]など技術導入に不可欠な知的財産法も早くから立法されている<ref name="kuniya93"/>。1984年10月、共産党第12期3中全会が経済改革に関する決定を採択して、経済改革への本格的な取り組みが始まった<ref name="kuniya93"/>。計画的商品経済という新しい概念を打ち出して、漸く新たな立法に着手した<ref name="kuniya93"/>。この時期の主要な立法としては、[[中華人民共和国民法通則]]([[1986年]])や全人民所有制工業企業法([[1988年]])がある<ref name="kuniya93"/>。同法は、中華人民共和国初の民事基本法である。ソ連・東欧の民法理論・立法経験を広く参照して起草されているが、計画的商品経済論に依拠しておることから部分的には当時の社会主義民法理論を乗り越えているところもあり、21世紀に入っても現行法として通用している<ref name="kuniya94">國谷(2011年)94ページ</ref>。80年代末になると、経済改革が全面的に実施されるようになり、私営経済(私営企業)の発展と株式制度の実験等のため、公有制・計画経済・按労分配の原則を見直す必要が必要が出てきたが、まだ伝統の枠を維持しながらの微調整に留まっている<ref name="kuniya94"/>。その代表が88年の憲法修正である<ref name="kuniya94"/>。こうした経済改革の動きは、民主化の要求を武力で抑え込んだ1989年の天安門事件(六四事件)によって一時中断する<ref name="kuniya94"/>。
 
<ref name="kuniya94">== 中華人民共和国法制史年表 ==
*1949年 9月「人民政治協商会議共同綱領」(暫定憲法)、10月中華人民共和国成立
*1950年 建国初期の三大立法(「婚姻法」、「土地改革法」、「労働組合法」)
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