「ヴェネツィア共和国の歴史」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Tahuantinsuyo (会話 | 投稿記録)
lk
28行目:
[[中世盛期]]に、ヴェネツィアは東ローマ帝国内における免税特権を活用し、[[シルクロード|東西貿易]]や[[香辛料貿易]]の仲介者として莫大な富を築いた。アジア全域から集められた商品は[[紅海]]の[[アクスム王国]]を通る[[ローマ・インド貿易|ローマ・インド通商路]]または[[レバント]]を経由して、ヴェネツィア商人の手によって[[ヨーロッパ]]に届けられるようになったのである。
 
さらにヴェネツィアは、その勢力圏のアドリア海からイオニア海への拡大を試みた。最初の試みは、[[1084年]]の[[ドミニコ・セルヴォ]]による[[イタリア・ノルマン|ノルマン人]]との戦いである。彼は艦隊を率いて戦ったが、敗北し、9隻のガレー船を失った<ref name="AD 1084">J. J. Norwich, ''A History of Venice'', p. 72.</ref>。次に訪れた転機は[[第1回十字軍]]である。ヴェネツィアは当初、十字軍が対立した東ローマ帝国やファーティマ朝と商業で交流があったために参加を見合わせた。しかし[[十字軍国家]]が成立すると[[1100年]]から参加し、200隻の船を派遣して[[シリア]]の沿岸都市占領を支援した<ref>[[齊藤寛海]]「ヴェネツィアの市場」([[山田雅彦]]編『伝統ヨーロッパとその周辺の市場の歴史 市場と流通の社会史1』所収) 清文堂出版、2010年。</ref>。[[1110年]]、[[オルデラフォ・フェリエロ]]は100隻から成る艦隊を率い、エルサレム王[[ボードゥアン1世 (エルサレム王)|ボードゥアン1世]]の援軍として[[サイダ]]を攻略した<ref name="AD 1110">J. J. Norwich, ''A History of Venice'', p. 83.</ref>。そして、[[1123年]]には[[パクトゥム・ワルムンディ]]により[[エルサレム王国]]における名目上の自治権を獲得した<ref name="AD 1099">J. J. Norwich, ''A History of Venice'', p. 77.</ref>。こうして1082年の東ローマ帝国での特権、1095年のイタリア王国での独占保証、1123年のエルサレム王国での特権によって、ヴェネツィアは地中海東部を中心とした海外貿易への進出を決定的なものとした
 
[[12世紀]]に交易拡大の為に、巨大な国立の造船所「アレセナーレ」を建てた。国の総力を挙げて、にも商業にも適した新しいガレー商船を大量に建造はじめとしていった。船舶の種類を増加させ、強力な[[海軍]]を持つようになったヴェネツィアは、[[地中海]]全域の覇権を手にする一歩を踏み出した。後にヨーロッパ世界の経済を握ったヴェネツィアに、各地から商人が集まってくる。世界で初めて[[銀行]]の[[為替]]業務が誕生し、各国の[[大使館]]が置かれた。ヴェネツィアは東ローマ帝国に対し、有事の際に海軍を提供する代わりに交易上の特権を与えられた。しかし結果として、これは東ローマ帝国人の多くからの妬みを買った。[[1182年]]に[[アンドロニコス1世コムネノス]]が帝位を狙いコンスタンティノポリスへ侵攻した際に、ヴェネツィア人は投獄または追放され、その財産は没収されたのである。
 
最も悪名高い[[十字軍]]とされる[[第4回十字軍]]においては、ヴェネツィアが人員輸送を担当した。しかし十字軍は船賃を払うに十分な資金を集めることができなかった。ドージェ[[エンリコ・ダンドロ]]は十字軍に対し、[[ザダル|ザーラ]]を攻略することで船賃の代わりとすることを提案した。ザーラは[[1183年]]にヴェネツィアから離反し、[[教皇]]と[[ハンガリー王国|ハンガリー王]][[イムレ1世]]からの庇護を受けていた。同じキリスト教国を相手に戦うことに十字軍内で異論はあったものの、結局は[[ザーラ包囲戦|ザーラを攻略]]した。十字軍はさらに、やはりキリスト教国である東ローマ帝国に向かい、[[1204年]]に首都[[コンスタンティノープル|コンスタンティノポリス]]を占領、略奪・殺戮・女性に対する乱暴の限りを尽くした。ここでヴェネツィアは1182年の事件に対する報復を果たしたのである<ref name=Phillips>Phillips, ''The Fourth Crusade and the Sack of Constantinople'', Introduction, xiii.</ref>。ここでヴェネツィアは数多の戦利品を獲得し、例えば[[聖マルコの馬]]は[[サン・マルコ寺院]]に飾られることとなった。東ローマ帝国の領土は十字軍参加国の間で分割された。ヴェネツィアは[[クレタ島|クレタ]]や[[エヴィア島|ネグロポンテ]]を始めとするエーゲ海の要衝を獲得した。クレタの[[ハニア|カニア]]の街などは、古代の都市[[キドニア]]の上にヴェネツィアによって築かれたものである<ref>C.Michael Hogan, ''Kydonia'', The Modern Antiquarian, Jan. 23, 2008 [http://letmespeaktothedriver.com/site/10881/cydonia.html#fieldnotes]</ref>。エーゲ海の島々は[[1207年]]にヴェネツィア領[[アルキペラゴ公国]]となった。東ローマ帝国はここで一旦滅亡する。[[1261年]]に亡命政権である[[ニカイア帝国]]が首都を奪回し東ローマ帝国を復興した時にはすっかり国力が衰えており、後の[[オスマン帝国]]の台頭を許した。この地域の覇権を握ったオスマン帝国はヴェネツィア領を次々と奪うことになり、これは後のヴェネツィア共和国の滅亡の伏線となるが、自らが招いたまさに自業自得と言える事象であった
 
[[1295年]]、[[ピエトロ・グラデニーゴ]]は68隻の艦隊を派遣して[[アレキサンドリア]]において[[ジェノヴァ共和国]]の艦隊と戦った。さらに[[1299年]]には100隻の艦隊で[[ジェノヴァ]]を攻撃した<ref name="AD 1295-1299">J. J. Norwich, ''A History of Venice'', p. 176-180.</ref>。[[1350年]]から[[1381年]]まで、ヴェネツィアは断続的に[[ヴェネツィア・ジェノヴァ戦争]]を戦った。開戦当初は劣勢であったが、[[1380年]]の[[キオッジャの戦い]]でジェノヴァ艦隊を撃破し、東地中海の覇権を奪取した。