「セルジューク・東ローマ戦争」の版間の差分

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== セルジュークのアナトリア進出 ==
[[1045年]]に[[東ローマ帝国]]は[[アルメニア]]を征服した。これによって東ローマ帝国は、すでにイランを支配下におさめていた[[セルジューク朝]]と領土を接することとなり、直接セルジュークの侵攻をうける事になる。東ローマ皇帝[[コンスタンティノス10世ドゥーカス]]は経費削減のため、グルジアとアルメニアの兵士からなる防衛隊を解散させてしまった。こうして守備力がなくなったアルメニアは徹底的にセルジューク朝の攻撃を受ける事になり、[[1064年]]に[[アルプ・アルスラーン]]によってアルメニアは完全に征服された。東ローマ皇帝[[ロマノス4世ディオゲネス]]は大勢の傭兵を引き連れてセルジューク討伐に向かったがマラズギルトの戦いで大敗し捕虜になってしまう。これでアナトリアの防衛も崩壊し、さらに内紛で動揺していた東ローマはアナトリアをセルジュークに占領されてしまった
[[1045年]]に[[東ローマ帝国]]は[[アルメニア]]を征服した。これによって東ローマ帝国は、すでに
イランを支配下におさめていた[[セルジューク朝]]と領土を接することとなり、直接セルジュークの侵攻をうける事になる。東ローマ皇帝[[コンスタンティノス10世ドゥーカス]]は経費削減のため、グルジアとアルメニアの兵士からなる防衛隊を解散させてしまった。こうして守備力がなくなったアルメニアは徹底的にセルジューク朝の攻撃を受ける事になり、[[1064年]]に[[アルプ・アルスラーン]]によってアルメニアは完全に征服された。東ローマ皇帝[[ロマノス4世ディオゲネス]]は大勢の傭兵を引き連れてセルジューク討伐に向かったがマラズギルトの戦いで大敗し捕虜になってしまう。これでアナトリアの防衛も崩壊し、さらに内紛で動揺していた東ローマはアナトリアをセルジュークに占領されてしまった
 
== コムネノス家とセルジュークの戦い ==