「マラズギルトの戦い」の版間の差分
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[[Image:BnF Fr232 fol323 Alp Arslan Romanus.jpg|thumb|right|200px|ロマノス帝を辱めるアルプ・アルスラーン。[[ボッカチオ]]の『著名人の運命(''[[:w:De Casibus Virorum Illustrium]]'')』の写本の挿絵(15世紀フランス)より。]]
ロマノス4世がアルプ・アルスラーンに面会した時、アルプ・アルスラーンはほこりにまみれたぼろぼろの血まみれの男が全能のローマ皇帝だとは信じられなかった。敗残の男がローマ皇帝だとわかると彼は皇帝の首を靴で踏みつけ、彼に地面に口づけを強要し<ref name="Norwich240"/>、歴史上有名な会話が交わされた。<ref name="kings">Peoples, R. Scott ''Crusade of Kings'' Wildside Press LLC, 2008. p. 13. ISBN 0-8095-7221-4, ISBN 978-0-8095-7221-2</ref>
:アルプ・アルスラーン「もし私が貴殿の前に捕虜として引きだされたら、貴殿はどのようにする?」
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:アルプ・アルスラーン「私の罰は、それよりはるかに重い。貴殿を赦免し、自由にする」
アルプ・アルスラーンはロマノスを丁重に遇した。<ref name="knight">Knight, Charles. ''The English cyclopædia'' Bradbury & Evans, 1857</ref>そして、戦闘前に提案した和議の条件を再び提案した。
ロマノスは1週間、捕虜として抑留された。この時、スルタンは皇帝にテーブルでの食事を許可している。一方で譲歩は同意された。アナトリアの周辺部の[[アンティオキア]]、[[エデッサ]]、[[ヒエロポリス]]とマラズギルトはセルジューク朝に割譲された。
彼の帰還後、ロマノスはその統治が深刻な問題にあることが分かった。彼は忠実な軍の育成を試みたにもかかわらず、彼はドゥーカス家との3度の戦いに敗れ、失脚させられ。目をつぶされ、[[:w:Kınalıada|プロティ島]]に追放された。ほどなく、彼は残忍な目つぶしが原因の感染症がもとで死去した。ロマノスの、彼が守ろうと奮戦した
==結果==
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