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'''源 頼義'''(みなもと の よりよし)は、[[平安時代]]中期の[[]]。[[河内源氏]]初代棟梁・[[源頼信]]の嫡男で[[河内源氏]]2代目棟梁。
 
== 生涯 ==
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[[長元]]元年([[1028年]])6月、かつて父・頼信の家人であった[[平忠常]]が関東において反乱([[平忠常の乱]]・長元の乱)を起こすと、長元3年([[1030年]])に朝廷より命じられて父とともに忠常討伐に出陣する。それまで国府軍や官軍を大いに打ち破ってきた忠常であったが、武勇に優れた頼信・頼義親子が追討軍として派遣された事を知ると大いに驚き、瞬く間に朝威に服したと謂われる。頼義はこの反乱平定に際して抜群の勇決と才気を示す活躍をしたとされ、乱後、小一条院[[敦明親王]]の判官代として勤仕し、狩猟を愛好したと伝わる小一条院の側近として重用されている。その一方、官位昇進の面では父・頼信に蔵人(官吏)として推挙された次弟・頼清に遅れをとり、頼義が[[相模国|相模]]守として初めて[[受領]]に任じられるのは、頼清が[[安芸国|安芸]]守として受領に任じられた5年後の[[長元]]9年([[1036年]])の事である。
 
=== 桓武平氏の婿となる ===
相模守在任中、忠常の乱の鎮圧に失敗して将軍を更迭されていた桓武平氏の嫡流筋である[[平直方]]は、国守「私は不肖の将軍であったが、それでも我が家はかの[[平将門]]を討ち滅ぼした[[平貞盛]]の嫡流である。それ故に何事も武芸第一と考えてきたが、国守殿ほどの弓の名人をこれまで見たことがない。ぜひとも我が娘の婿となって頂きたい」と、頼義の武勇に大いに感じ入り自らの娘を嫁がせ、さらに[[鎌倉]]の大蔵にあった邸宅や所領、桓武平氏嫡流伝来の郎党をも頼義へ譲り渡した。頼義はこの直方の娘との間に[[源義家|八幡太郎義家]]、[[源義綱|賀茂次郎義綱]]、[[源義光|新羅三郎義光]]という優れた3人の子息に恵まれ、鎌倉の大蔵亭は長く河内源氏の[[東国]]支配の拠点となり、郎党である坂東武者達は後の奥州での戦いで大きな力となった。頼義はこの相模守在任中に得た人や土地を基盤として河内源氏の東国への進出を図る事となる。
 
=== 前九年の役勃発 ===
[[永承]]6年([[1051年]])50歳を目の前にしてようやく受領となった頼義を尻目に弟の頼清は安芸守を始めとして[[陸奥国|陸奥]]守[[藤原登任肥後国|肥後]]は衣川守など諸国の受領南下歴任し、着実に能吏として勢力の道拡大せでいった。そんな中、かつて頼清が国司を勤めた陸奥国で騒乱が起きる事。陸奥国は[[俘囚]]と呼ばれる土着の豪族達が割拠していたが、その中でも最も勢力が大きかったのが[[奥六郡]]を支配する[[安倍氏 (奥州)|安倍氏]]であった。安倍一族の首領である[[安倍頼時|安倍頼良]]は朝廷への[[貢租]]を討伐す事度々であり、却って衣川以南への勢力拡大の動きも見せた。このため[[永承]]6年([[1051年]])、時の陸奥守・[[藤原登任]]は頼良懲罰の為に、[[秋田城介]]の[[平繁茂]]と共に官軍を率いて玉造郡鬼切部にて賊軍と干戈を交え(鬼切部の戦い)、ここに12年にわたる[[前九年の役]]の火ぶたが切って落とされることとなった。結局、この前九年の役最初の合戦となった鬼切部での戦いは、頼良率いる賊軍の前に官軍が大敗したため国司・登任は陸奥守を更迭された。
 
こに至って奥州の騒乱は朝廷にとっても見過ごせないものとなり、登任の後任の陸奥守として白羽の矢が立ったのが頼義であった。朝廷は頼義を[[陸奥国|陸奥]]守、さらに[[鎮守府将軍]]を兼任させるなどして、奥州の騒乱平定を期待した。こうして頼義はかつての父・頼信と同じように賊軍鎮圧の大任を帯び、陸奥へと下向した。一方、武名高い頼義が将軍として下向することを知った頼良は恐れ慄き、頼義が陸奥守として陸奥の政庁であった[[多賀城]]に着任すると、大人しく恭順の意を示し、自らの諱である「頼良(よりよし)」が将軍たる「頼義(よりよし)」と同じ音では恐れ多いとして「頼時(よりとき)」と名を改めるなど、平身低頭で頼義に従う姿勢を見せた。また中央でも国母である上東門院([[藤原彰子]])の病気平癒祈願による恩赦もあり、戦役は休戦となた。しかしやが朝廷に服従した頼時、安倍氏の反乱自体挙兵し戦役は再開された。再開後為、戦役[[藤原経清]]などの離反もあり、黄海休戦状態きのみ)の実質的に終いで大敗する)とど苦戦が続いたが、その後、出羽の豪族の[[出羽清原氏|清原氏]]の協力を得て安倍氏や経清を討った。
 
=== 阿久利川事件 ===
この戦乱は陸奥への河内源氏勢力拡大のためのものであったが、頼義は戦後朝廷より[[伊予国|伊予]]守に叙任されて陸奥守への再任に失敗し、清原氏に陸奥の支配権を譲る形で帰京。[[承保]]2年([[1075年]])に没、[[享年]]87。
以後、頼義の陸奥守在任中は何事もなく平穏に過ぎ去り、その任期満了である[[天喜]]4年([[1056年]])の年を迎える事となった。このまま任期を終えれば父・頼信と同じように戦わずして反乱を鎮圧するという栄光を手に入れられる筈であったが、皮肉にもその任期満了直前に再び戦火の狼煙が上がる事件が起こる事となる。頼時から惜別の饗応を受けた頼義が鎮守府から国府へ帰還する途中、阿久利川にて野営を敷いて一夜を明かす事となったが、その際に何者かによって頼義配下の陣が荒らされる騒ぎが起こった([[阿久利川事件]])。早速、襲撃を受けた陸奥権守の[[藤原説貞]]の子・[[藤原光貞]]を呼び出して事の次第を尋ねると、光貞は「これはきっと頼時の嫡男・[[安倍貞任|貞任]]の仕業に違いありません。予てより貞任は私の妹を妻に欲しいと申し出ておりましたが、何しろ相手は卑しい俘囚の奴輩ですのでこれを拒んでおりました。今宵の件は逆恨みをした貞任が起こしたのでしょう」と申し出た。これを聞いた頼義は大いに怒り、直ちに貞任を引き渡すよう頼時に求めたが、頼時は「世には人倫(人の道)というものがある。いかに貞任が愚かな息子であっても、親としてこれを見捨てる事が出来ようか。ここに至っては将軍の命に従って貞任を引き渡す訳にはいかない。この上は衣川の関を閉じて一族の命運を賭して官軍と戦わん」として貞任の引き渡しを拒否して挙兵した。こうして反乱の無血鎮圧という栄光をみすみす取り逃がす格好となった頼義は烈火の如く怒り軍勢を衣川の関へと差し向けた。やがて朝廷からも頼時追討の宣旨が下されたため、ここに前九年の役は再開される事となった。
 
=== 永衡誅殺と経清出奔 ===
河内源氏の氏神である[[石清水八幡宮]]を勧請して、[[壷井八幡宮]]([[大阪府]][[羽曳野市]])と鶴岡若宮([[鶴岡八幡宮]]の前身)、[[大宮八幡宮 (杉並区)|大宮八幡宮]]([[東京都]][[杉並区]])等を創建した。
戦役の再開後に微妙な立場に置かれる事となったのが、頼義の幕下でありながら頼時の娘婿でもあった[[藤原経清]]と[[平永衡]]であった。特に永衡は前任の陸奥守・藤原登任が安倍氏懲罰を行った際に賊軍側に走った過去があったため周辺から疑いの目で見られていた。官軍が衣川まで辿り着いた時、ある者が頼義に「永衡は前国守(登任)様から厚く眼を掛けて頂いていたにも関わらず、賊軍に走った不義不忠の輩です。今は将軍(頼義)に従う素振りを見せてはいますが、腹の中では何を諮り巡らせているか知れたものではありません。しかもあの者の鎧は我が官軍の者とは違った色をしております。漢の黄巾賊や赤眉賊の例を見ても、装備の色や形で敵味方を判断していたといいます。これを見ても永衡が二心を抱いているのは明らかで、災いが起こる前に早くあの者を取り除くべきです」と進言し、頼義も「もっともな事である」として、この進言を入れて永衡を誅殺した。これによって疑心暗鬼となったのが相婿の藤原経清であった。経清は親しき知人に「義理の兄弟であった十郎(永衡)が将軍に誅殺されてしまった。昔、漢の[[韓信]]や[[彭越]]が[[劉邦|高帝]]から誅殺された時、二人の同僚の[[黥布]]は背筋が凍ったというが、今の私はまさにその心境だ。どうしたらいいだろうか」と尋ねると、知人は「恐らく将軍は貴殿を信用しないでしょう。そして必ず御身に災いが起こるに違いありません。貴方は災禍が降りかかる前に舅殿(頼時)の元へ走るのが賢明でしょう」と答えたため、経清は「その通りだ」として私兵を率いて賊軍へ走ってしまった。平永衡が真に二心を抱いていたかは不明であるが、これにより頼義は立て続けに有力な幕僚を失い、戦役は泥沼化の様相を呈してくることになった。
 
=== 頼時討死 ===
戦役の再開により、当初頼義の後任として予定されていた[[藤原良綱]]は、戦時となった任国地へ赴くのを恐れ逃亡してしまった為、頼義の陸奥守重任が決定された。陸奥守に再任した頼義は一進一退の戦況を打開するために、天喜5年([[1057年]])5月、配下の俘囚である[[金為時]]に命じて頼時の従兄弟といわれる津軽の俘囚長・[[安倍富忠]]を味方に引き入れ、賊軍に対して攻勢を仕掛けた。一族からの離反者に慌てた頼時は、7月に富忠を説得しに自ら津軽へ向かうものの富忠勢の伏兵に遭い重傷を負い撤退、[[鳥海柵]]にてそのまま陣没してしまった。9月に頼義は朝廷に対し「私は諜略を以て金為時や安倍富忠などの俘囚を味方に引き入れ官軍の列に加えました。これを聞きつけた賊魁の頼時は富忠を引き留めようと説得を試みましたが、却って富忠の伏兵に遭い流れ矢に当たってそのまま死亡しました。しかしながら賊軍は首領を喪ったにも拘らず未だ降伏の気配がありません。この上は官符を賜り、官軍の増援と兵糧を頂戴したく思います」との頼時戦死の報告書を送ったが、朝廷からの論功の音沙汰は無く、また賊軍の方も頼時の跡を継いだ貞任が前にも増して気勢を上げるなど状況は官軍に好転しなかった。
 
=== 黄海の大敗 ===
頼時討伐の勲功が出ないまま、同年11月に頼義は貞任を討つために兵1900程を率いて賊軍の籠る河崎柵へ進軍した。対する貞任は精兵4000を率いて黄海(きのみ)にて迎撃を試みた(黄海の戦い)。成れない土地柄の上、折からの風雪と慢性的な兵糧不足に悩まされていた官軍は、兵力でも大きく劣っていた為に賊軍に散々に打ち破られ死者数百人を出す大敗を喫した。将軍・頼義もあわやという状況まで追い込まれたが、頼義の嫡男である義家の活躍で九死に一生を得たとされる。この時の義家の活躍ぶりは「矢を放てば必ず敵を射殺したため、賊軍も懼れて散り散りに逃亡した(『陸奥話記』)」程であったという。嫡子・義家の獅子奮迅の活躍で窮地を脱したものの敗走する頼義に従うものは義家を含め[[藤原景通]]、[[大宅光任]]、[[清原貞広]]、[[藤原範季]]、[[藤原則明]]の僅か6騎で、30年来の忠臣であった[[佐伯経範]]をはじめとして、[[藤原景季]]、[[和気致輔]]、[[紀為清]]などの多くの家人をこの戦いで失う大打撃を受けた。なお、将軍の頼義も討死したとの噂も立つほどで、家人の[[藤原茂頼]]は「将軍討死」の報を受けて大いに悲しみ、出家して頼義の遺体を探す最中に生存していた頼義と再会している。
 
=== 続く苦戦 ===
黄海の戦いで九死に一生を得た頼義ではあったが、この大敗によって受けた損害は甚大で、その後数年間は満足な軍事行動を起こす事が出来ず、ひたすら兵力の回復を待つ日々が続いた。この間も朝廷に対して隣国の[[出羽国]]の国守に援軍を派遣するよう依頼したが、当の出羽守・[[源斉頼]]は一向に援軍を派遣する気配を見せなかった。これを嘲笑うかのように賊軍は奥六郡を思うままに支配した。さらには先に賊軍の元へ寝返った藤原経清などは陸奥国内の諸郡に対して、赤符(国の徴符)ではなく白符(経清の私的な徴符)を用いさせて国へ納めるべき徴納物を堂々と奪い取るり、国守たる頼義の面目を大いに潰す行動を行った。
 
=== 清原氏の参戦 ===
このような苦戦が続く中、[[康平]]5年([[1062年]])、頼義は再び陸奥守任期満了の年を迎えた。朝廷は新任の陸奥守として[[高階経重]]を任命して任地へ下向させたが、陸奥国内の郡司や官人達は経重の指示に従わず前国守である頼義の指図に従ったため、陸奥守としての勤務が困難と判断した経重は虚しく帰京した。これを受けて朝廷は三度頼義を陸奥守に任命し、併せて奥州の騒乱の鎮圧を頼義に賭ける事となった。三度目の陸奥守となった頼義は出羽に勢力を張る[[出羽清原氏|清原氏]]の兵力に目をつけ、清原氏の総領である[[清原光頼]]に対し参戦を強く要請した。はじめのうちは参戦に渋っていた光頼ではあったが、頼義が朝廷の命を楯に依頼したことや「奇珍な贈物」を贈り続けた事から参戦を決意し、7月に弟の[[清原武則]]を総領代理として1万の兵を率いさせて頼義の元へ出仕させた。これにより国府の兵力と併せておよそ1万3000の兵を擁した官軍は大規模な軍事作戦を行う事が可能となり、以下の7陣に分けた軍団を編成した。
 
*第一陣大将、武則の子・[[清原武貞]]
*第二陣大将、武則の甥・[[橘貞頼]]
*第三陣大将、武則の甥にして娘婿・[[吉彦秀武]]
*第四陣大将、貞頼の弟・[[橘頼貞]]
*第五陣大将、清原武則
*第六陣大将、[[吉美候武忠]]
*第七陣大将、[[清原武道]]
 
このうち頼義は将軍として武則率いる第五陣に属して全体を統率した。
 
=== 安倍氏の討滅 ===
清原氏の参戦により戦況は一気に官軍有利へと運び、僅か2ヶ月ほどで安倍氏の本拠地である[[厨川柵]]を陥落させ、貞任以下主だった賊徒を捕縛した。貞任は頼義の前に引き出された際には重傷を負っており、頼義を一瞥して息を引き取ったといわれる。一方で官軍から離反し、さらに国守としての頼義の面目を大いに潰した経清に対する頼義の憎悪は凄まじく、「貴様は源氏累代の家臣でありながら、主君たる余を裏切りまた朝廷の威光を蔑ろにした大罪人である。この状況でもまだ白符を使えとほざけるか」と罵ると経清は深く頭を下げて語らなかった為、鈍刀にてその首を刻み落とした。こうして天喜4年の戦闘再開から8年、鬼切部の戦いから数えれば12年にわたる前九年の役が終結した。
 
戦後、頼義は朝廷より正四位下[[伊予国|伊予]]守に任じられる事となった。この当時の伊予は[[播磨国]]と並んで全国で最も実入りの良い「熟国」として知られ、そのため伊予守も播磨守と共に受領の筆頭格であった。当初の無血鎮圧の目論見に失敗し、そればかりか鎮圧に12年もの歳月をかけた頼義ではあったが、この論功を見る限り、その功績は大という評価を朝廷から受けたとみえる。
 
=== 晩年 ===
伊予守の任期を終えた後は出家し信海入道と号して余生を過ごし[[承保]]2年([[1075年]])に没、[[享年]]87。河内源氏の氏神である[[石清水八幡宮]]を勧請して、[[壷井八幡宮]]([[大阪府]][[羽曳野市]])と鶴岡若宮([[鶴岡八幡宮]]の前身)、[[大宮八幡宮 (杉並区)|大宮八幡宮]]([[東京都]][[杉並区]])等を創建した。
 
墓所は[[大阪府]][[羽曳野市]]の河内源氏の菩提寺だった[[通法寺]]跡にある。
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*[[1056年]]([[天喜]]4年)[[12月29日 (旧暦)|12月29日]]、陸奥守を更任。
*[[1062年]]([[康平]]5年)、陸奥守任期満了。
*[[1063年]]([[康平]]6年)[[2月25日 (旧暦)|2月25日]]、四位下に昇叙し、伊予守に任官。
*[[1065年]]([[治暦]]元年)[[9月1日 (旧暦)|9月1日]]、剃髪し、信海と号す。
*[[1075年]]([[承保]]2年)[[8月27日 (旧暦)|8月27日]]、卒去。享年87。