「源頼義」の版間の差分

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同11日、官軍は賊軍を追って鳥海柵へと至ったが、すでに賊将達は鳥海柵を放棄して本拠地である[[厨川柵]]へと退却してしまっていた。柵内には大量の美酒が残されており、はじめ頼義は毒が盛られているのではと警戒したが、毒身をした結果、その心配は無かったので将兵に各々美酒を振る舞った。これによって官軍の士気はますます高まった。頼義は武則に「頼時を討伐してより、鳥海の柵という名をずっと聞いていたが、これまで実物を見ることができずにいた。しかし今日貴殿らの活躍によって初めてここに入ることができた。武則殿よ、今の余の顔色を見てどのように感じるか?」と語った。武則は「将軍は長年にわたって皇家の御為に忠節を尽くして来られました。風の中で髪をくしけずり雨で髪を洗い、蚤や虱のたかった甲胄をお召しになり、官軍を率いて苦しい征旅を続けられました。既に開戦より10余年の歳月が過ぎておられる。天地の神仏は将軍の忠孝を助け、我が将兵たちは皆、将軍の志に感じ入っております。今、賊軍が敗走したことは、これまで溜めていた水が堤を切って流れ出したようなものです。私は将軍の指揮に従っただけです。どうして私に武勲などありましょうか。ところで、将軍のお姿を拝見しますと、白い御髪が半ば黒に戻っている様に見えます。厨川柵を陥として貞任の首を取ることができれば、将軍の御髪はきっと漆黒となり、痩せられたお身体もふっくらとなされるのではないでしょうか」と謙遜して答えた。頼義は笑って「貴殿は一族郎党を率いて、羽州から大軍を発して来られた。堅牢な甲冑に鋭い太刀を持ち、矢礫に立ち向かって陣を破り城を落としてきた。その戦術はまるで石を転がすように見事なものであった。まさにその活躍によって余も皇家に忠節を遂げることができたのだから、貴殿は戦の功を余に譲ることなどない。しかし、余の白髪が黒く戻ってみえるというのは、冗談でも嬉しく思う」と笑ったという。
 
=== 安倍氏厨川柵討滅戦い ===
清原氏の参戦により戦況鳥海柵を攻略した官軍一気15日ついに賊有利の本拠地である厨川柵へと運び、僅か2ヶ月ほどで到達した(厨川柵の戦い)。安倍の本拠地だける[[って流石に厨川柵]]の守りは固く、賊軍は柵上より雑仕女達に歌舞陥落させ、貞任て余裕を見せるなど官軍を挑発した。頼義以下将兵は大いに怒り、柵を遮二無二に攻めたが徒に被害を増すけであった賊徒。そこで17日に頼義は火攻め捕縛決意、近隣の村々より木材や藁を集めるよう命じた。貞任は火攻めの準備を整えると、頼義は遥か皇城を拝み「かつて漢の将軍忠節引き出さ呼応して枯池に水が溢て軍の窮状を助けといいますが、今、我が国おいても天皇の御威光重傷新たかです。この御威光により大風が起こり私の忠節負って助けください。八幡の神々よ頼義何とぞ風一瞥吹かせ火を起こして厨川柵焼いてください」と祈念して火をかけると、忽ちに大風が起こり厨川柵を焼上げるに至った。柵を焼かれた賊軍は大混乱いわなり、ある者は官軍によって殺さ、またあ者は捕縛されていった一方でそのような中、官軍から離反した藤原経清も官軍に捕縛された。頼義はこれを喜び、直ちに検分する事とした。その離反によって戦役を泥沼化させ、さらに国守としての頼義の面目を大いに潰した経清に対する頼義の憎悪は凄まじく、「貴様は源氏累代の家臣でありながら、主君たる余を裏切りまた畏れ多くも朝廷の威光を蔑ろにした大罪人である。今ようやく貴様を虜にする事が出来た。貴様はこの状況でもまだ白符を使えとほざけるか」と罵ると経清は深く頭を下げて項垂れたまま何も語らなかった為、頼義は鈍刀にて経清の首を刻み落とした。こうして天喜4、積年の戦闘再開か鬱憤を晴8年、鬼切部の戦いから数えれば12年にわたる前九年の役す事終結し出来た。
 
=== 安倍氏の滅亡と前九年の役の終結 ===
戦後、頼義は朝廷より正四位下[[伊予国|伊予]]守に任じられる事となった。この当時の伊予は[[播磨国]]と並んで全国で最も実入りの良い「熟国」として知られ、そのため伊予守も播磨守と共に受領の筆頭格であった。当初の無血鎮圧の目論見に失敗し、そればかりか鎮圧に12年もの歳月をかけた頼義ではあったが、この論功を見る限り、その功績は大という評価を朝廷から受けたとみえる。
一方の貞任は、尚も暴れ続けたがついに力尽き捕縛された。頼義の前に引き出された際には重傷を負って既に瀕死の状態であったとされ、頼義を一瞥して息を引き取ったといわれる。貞任の享年は34歳と伝わる。貞任の弟である重任も同じく戦死した。また同じく弟の宗任は柵の陥落後に逃亡するも、やがて官軍に投降した。その他、13歳になる貞任の嫡男・[[安倍千世童子丸]]も生け捕った。頼義は千世童子丸の貴公子然とした振る舞いに感心し一時は助命をも考えたものの、武則の後の災いになるとの意見を入れてこれを斬らせ、他にも多くの安倍一族を処刑・捕縛した。こうして天喜4年の戦闘再開から8年、鬼切部の戦いから数えれば12年にわたる前九年の役が終結した。
 
=== 戦後 ===
戦後、頼義は朝廷より正四位下[[伊予国|伊予]]守に任じられる事となった。この当時の伊予は[[播磨国]]と並んで全国で最もの良い「熟国(温国)」として知られ、そのため伊予守も播磨守と共に受領の筆頭格であった。当初の無血鎮圧の目論見に失敗し、そればかりか鎮圧に12年もの歳月をかけた頼義ではあったが、この「公卿一歩手前」という論功を見る限り、その功績は大という評価を朝廷から受けたとみえる。
 
=== 晩年 ===