「ヒャルマル・シャハト」の版間の差分

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|国略称 ={{DEU1935}}
|生年月日 =[[1877年]][[1月22日]]
|出生地 ={{PRU}}<br>[[シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州]]<br>[[{{仮リンク|ティングレフ]] |da|Tinglev}}
|没年月日 ={{死亡年月日と没年齢|1877|1|22|1970|6|3}}
|死没地 = {{FRG}}<br>[[バイエルン州]]、[[ミュンヘン]]
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== 経歴 ==
=== 前半生 ===
当時[[プロイセン王国]]の[[シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州]]([[:de:Provinz Schleswig-Holstein]])に属していた[[{{仮リンク|ティングレフ]]([[:|da:|Tinglev]])}}に生まれる(現在は[[デンマーク]]領)。父はヴィルヘルム・レオンハルト・ルートヴィヒ・マクシミリアン・シャハト(William Leonhard Ludwig Maximillian Schacht)。母はコンスタンツェ・ユスティーネ・ゾフィー・シャハト(Constanze Justine Sophie Schacht)(旧姓フォン・エッガース(von Eggers))。母は男爵令嬢だった{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=172}}。
 
両親とともに[[アメリカ合衆国]]へ移住。父ヴィルヘルムはアメリカ合衆国市民権を取得した<ref name="ヴィストリヒ92">ヴィストリヒ、92頁</ref>{{sfn|ゴールデンソーン|2005|p=171}}。父ヴィルヘルムはアメリカのジャーナリズムの先進性に感銘を受け<ref name="Hamilton331">Hamilton,p331</ref>、シャハトの名前もアメリカのジャーナリスト[[ホレス・グリーリー]]に因んでいる<ref name="パーシコ下183">パーシコ、下巻183頁</ref>。
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しかしアメリカ検事ジャクソンはシャハトに手心を加えるつもりはなく、「被告の中でも最も軽蔑すべき人物はシャハトだ。シャハトには選択の自由があった。ナチ党に協力することもできれば、反対することもできたんだ。ナチスを政権に押し上げる上で、あの男ほど一個人として貢献した者はおらんよ」と語っていた<ref name="パーシコ下272">パーシコ、下巻272頁</ref>。
 
証言台に立ったシャハトは自分がいかにヒトラーに抵抗して戦争回避に努力したかを強調した<ref name="時事145">[[#時事|『ニュルンベルク裁判記録』、p.145]]</ref>。1946年4月30日からの弁護側尋問で「私はドイツの軍備が近隣諸国と同程度にならなければならないと確信したが、絶対にそれ以上のものであってはならないと考えた。最初のうちは立派な人たちがナチ党に加入したり、[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]の[[親衛隊名誉指導者|名誉退員]]に加わったりした。そのため私はヒトラーが戦争を回避できる男だと思っていた。しかし幻滅の時が来た。それでも私は政府に留まる決心をした。それ以外に私がブレーキを果たす機会がないからだ。」「私は1934年の[[長いナイフの夜|レーム一揆]]でのヒトラーの非合法的な粛清を批判し、同年の[[シャルンホルスト (戦艦)|シャルンホルスト艦]]上での祝賀会でもヒトラーに二通の覚書を手渡し、ナチ党の教会に対する敵意、ユダヤ人への虐待、[[ゲシュタポ]]の非合法活動がドイツの通商に大打撃を与えている事実を警告した。同年8月にも[[ケーニヒスベルク]]での演説で同じことを主張し、[[ヨーゼフ・ゲッベルス|ゲッベルス]]の反対を無視してその演説内容を25万部印刷して各方面にばらまいた。それによって私はヒトラーの信頼を失った」「わたしは[[四カ年計画]]の立案でも無視され、一言の相談を受けなかった。ゲーリングが私の職責である経済問題に手を伸ばし始めたので、私は1937年8月に辞表を叩きつけた。しかしヒトラーは私の国内外での名声を考慮して辞表を受けたがらなかった」と証言した。また1940年春にフランスから凱旋したヒトラーがシャハトの賛辞と軍備増強に反対したことへの反省の言葉を期待して得意げに「シャハト君、どうだね?」と聞いてきたが、自分は「神の御加護がありますように」と述べて突き放したと証言した<ref>[[#時事|『ニュルンベルク裁判記録』、p.144]]</ref>。さらに戦争でふところを肥やしたという非難に対して「私がヒトラーからもらったのは絵画1枚だけだ。よく調べてみたらそれは偽物だったので突き返した」と述べた。この証言で法廷が爆笑に包まれた<ref name="時事145"/>。
 
5月2日から始まった検察側尋問でアメリカ検事ジャクソンは四カ年計画責任者ゲーリングへ宛てて送ったシャハトの手紙を提出した。その中でシャハトは「世界市場においてドイツの開かれた機会をつかむために一時軍備を削減する必要」を訴えており、「そうすれば輸出が増大し、近い将来軍備増強ができる」「軍備の一時停止は将兵の訓練の時間を与えることにもつながり、これまでの.軍備の技術的結果を再検討して改善の余地を与える物である」と説いていた。これによってジャクソンはシャハトが平和のために軍備増強の停止を訴えていたのではないという印象を法廷に持たせようとした。これに対してシャハトは「それは戦術的な書簡である。私の希望は軍備増強ではなく、軍備の制限にあるのだ。だがゲーリングに率直に言っては聞き入れられるわけがないからだ」と返答した<ref>[[#時事|『ニュルンベルク裁判記録』、p.145-146]]</ref>。