「源頼義」の版間の差分
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=== 官軍の反攻 ===
翌8月17日、官軍は賊軍の拠点の一つである小松柵へと到達した。この柵は貞任の叔父である[[安倍良照]]と弟の[[安倍宗任]]が守将として籠っており、はじめ官軍は慎重に柵の攻略を進めようとしていた。しかし、図らずも接敵してしまったために戦闘がおこなわれる事となった(小松柵の戦い)。頼義は「攻撃は明日のつもりであったが、今既に戦いは始まってしまった。しかし戦というものは好機が来たら始めるものであって、吉凶を占い日時を選んで行うものではない。まさに今がその時だ」と意気込み、武則も「今の官軍の勢いは侵略する水火の如くです。これ以上の
小松柵の戦いに勝利を収めた官軍ではあったが、折からの長雨で徒に数日を過ごさざるえず、やがて兵糧が欠乏するような状況となった。これを聞きつけた賊魁の貞任は官軍本陣への奇襲を図り、9月5日に官軍の本陣のある営岡へ8000の精兵を率いて攻め寄せた。この時、頼義の傍に侍っていた武則は戦勝祝いの言葉を述べた。この言葉に頼義が訝しむと、武則は「地の利の無い官軍がこれ以上六郡を深く進軍しても被害を大きくするだけです。そんな中、賊軍が自ら我らの前に飛び込んで来てくれたのです。これは賊軍を討ち果たす絶好の機会と言えるでしょう」と答えた。これを聞いた頼義は尤もな事であるとして、四方隙の無い「常山蛇勢の陣」を敷くと賊軍を迎撃した。官軍と賊軍の戦いはおよそ6時間続く激戦となったが、息子である義家と義綱の虎鷹の如き活躍もあって、ついに賊軍は敗走を始めた。頼義は武則へ貞任の追撃を命じると、自身は官軍の将兵を労り、また負傷者を厚く気遣ったといわれる。この頼義の振る舞いに将兵はみな感激し、「我らの命はこの御恩の為に使いたいものだ。武者の命は義理の前にあっては軽いものであるから、今、将軍の為に死んだとしても何ら恨むことはない。かつて[[唐]]の[[李世民|太宗]]が自らの髭を焼いて、傷ついた将兵の膿を啜ったという話があるが、我らが将軍の気遣いもそれ以上ではないか」と言い合った。
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=== 戦後 ===
康平6年([[1063年]])2月16日、頼義は貞任、経清、重任の首を掲げて都へ凱旋した。都大路は遠く夷敵の地で戦い続けた老将軍と官軍の勇姿を一目見ようと物見の民衆で溢れたという。2月25日、[[除目]]が行われ、頼義は朝廷より正四位下[[伊予国|伊予]]守に任じられる事となった。この当時の伊予国は[[播磨国]]と並んで全国で最も収入の良い「熟国(温国)」として知られ、そのために伊予守も播磨守と共に「四位上﨟」と称される受領の筆頭格であった。当初の無血鎮圧の目論見に失敗し、そればかりか鎮圧に12年もの歳月をかけた頼義ではあったが、この「公卿一歩手前」という
「四位上﨟」たる伊予守に昇進した頼義であったが、未だ恩賞を手にしていない将兵の為に都へ留まり、彼らの恩賞獲得に奔走した。結局、実際に伊予へ赴任したのは2年後で、その間に滞納していた2年分の官物は私費をもって納入したと言われる。
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*[[大宅光任]] - [[駿河国]]の住人。[[敏達天皇]]末裔。
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== 参考文献 ==
* [[元木泰雄]]『河内源氏』[[中公新書]]、2011年。
* [[野口実]]『武家の棟梁の条件』中公新書、1994年。
* [[安田元久]]『[[人物叢書]] 源義家』吉川弘文館、1966年。
== 関連項目 ==
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