「鹿妻穴堰」の版間の差分

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=== 歴史 ===
盛岡市・紫波郡の北上川西部に灌漑する県下最大の用水堰で、開墾の年代は[[慶長]]年間(慶長2年及び慶長4年)とされる<ref>慶長2年 説碑文、同4年 内史略(岩手県史-5)</ref>。一説には[[盛岡城]]の築城に際し、[[南部藩]]主の[[南部信直]]が水争いの絶えない鹿妻、太田地域に引水するため金山師・[[鎌津田甚六]]<ref>佐藤実『鎌津田甚六集成』鹿妻穴堰土地改良区。</ref>に命じて作らせたといわれる。当時の雫石川は[[暴れ川]]として有名であったが、川に突き出た剣長根の岩山を掘ることで安定した取水口を完成させた。剣長根は珪化を受けた硬い凝灰岩からなり<ref>蒲田理,2015,盛岡市上太田穴口鹿妻穴堰近傍の金鉱について,岩手の地学,40-46</ref><ref>蒲田理『盛岡市上太田穴口鹿妻穴堰近傍の金鉱について』2015年。</ref>、掘削工事は難航したが、鎌津田甚六は鉱山の採掘技術をもって長さ六間(12m)、巾一間(2m)のトンネルを開削したとされる。
 
この付近には古くから金や鉛の鉱脈があるといわれており、特に鉱脈の多かった穴口では鎌津田甚六が試掘を行い、金の採鉱と開田を兼ねての穴堰掘削を[[南部藩]]に提議したと伝わる。[[明治]]2年に[[盛岡藩]]が新政府に提出した「御領中諸鉱山取調帳」にも当地付近が金・銀山と記されている。実際に穴口では、[[自然金]]や[[閃亜鉛鉱]]、[[方鉛鉱]]、[[黄銅鉱]]などを含む[[金]]・[[鉛]]・[[亜鉛]]の[[熱水鉱脈|鉱脈]]が発見されている<ref>蒲田理,2015,盛岡市上太田穴口鹿妻穴堰近傍の金鉱について,岩手の地学,40-46</ref><ref>蒲田理『盛岡市上太田穴口鹿妻穴堰近傍の金鉱について』2015年。</ref>。