「ジルベルト・ゴドイフィリョ」の版間の差分

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ジュニア時代から注目され、[[1993年]]世界ユース選手権で優勝、[[1994年]]世界ジュニア選手権で準優勝に貢献し、MVPを獲得する。[[1995年]]に[[バレーボールブラジル男子代表|ブラジル代表]]入りし、19歳で[[1995年ワールドカップバレーボール|ワールドカップ]]に出場。地元ブラジルでバレーボールのキャリアを積み重ねた後、[[2001年]]に[[イタリア]]へ渡りプレーをした。[[2003年]]から在籍した[[セリエA (バレーボール)|セリエA]]の[[ピエモンテ・バレー|クーネオ]]では、[[2006年]]の[[コッパ・イタリア (バレーボール)|コッパ・イタリア]]で優勝し、MVPに選ばれた。[[2007年]]から[[ロシア・バレーボール・スーパーリーグ|ロシアスーパーリーグ]]の[[イスクラ・オジンツォボ]]でプレーし、[[2009年]]に[[スーパーリーガ (バレーボール)|スーパーリーガ]]の[[ピニェイロス・サンパウロ]]へ移籍した。
 
ナショナルチームでは、スピードのあるレフトの平行トスと抜群の守備力を武器に[[2000年代]]のブラジルバレー黄金期の中心選手として活躍し、通算308試合に出場。[[アテネオリンピック (2004年) におけるバレーボール競技|2004年アテネオリンピック]]で[[金メダル]]を獲得するとともに、[[最優秀選手|最優秀選手賞]]を受賞。また、金メダルを獲得した[[2006年バレーボール世界選手権|2006年世界選手権]]、[[2006年バレーボール・ワールドリーグ|同年ワールドリーグ]]、[[2007年ワールドカップバレーボール|2007年ワールドカップ]]においても最優秀選手賞を受賞した。その後キャプテンとしてチームを牽引し[[北京オリンピックにおけるバレーボール競技|2008年北京オリンピック]]に出場したがジバ自身の不調もあって決勝で[[バレーボールアメリカ合衆国男子代表|アメリカ]]に敗れて銀メダルに終わった。
 
その後再びキャプテンとして[[2009年ワールドグランドチャンピオンズカップ]]に出場しチームの中心として活躍して優勝、大会2連覇を成し遂げた。その後[[2010年バレーボール男子世界選手権]]に出場して大会3連覇を成し遂げたが、ジバがコートに立つことは殆どなかった。しかし、怪我をしながら決勝で最後までトスを上げ続けた[[ブルーノ・レゼンデ]]監督を試合後讃えるなどチームの精神的支柱として活躍した。
 
2012年8月の[[ロンドンオリンピック (2012年) におけるバレーボール競技|ロンドンオリンピック]]では、2大会連続となる銀メダルを獲得に終わってまった。
 
== 人物・エピソード ==
{{出典の明記|section=1|date=2010年10月}}
* 子供時代に数ヶ月の闘病生活を送ったことがある。
* ブラジル代表でセッターの[[リカルド・ガルシア]]とは13歳の頃からの親友である。
* [[2006年]]、[[バレーボール世界選手権|世界選手権]]前にブラジルはヨーロッパで調整を行い来日したが、その際にジバはヨーロッパでチームメイトに内緒で優勝したときのお祝いとしてシャンパンを買っていた。
* [[2003年]]に結婚した。妻は[[ルーマニア]]の[[バレーボール]]選手のクリスティーナ・ピルヴである。2004年のアテネオリンピックの大会期間中に、長女が誕生した。愛妻家としても知られており、バレーボールをしているときでも決して指輪をはずすことはない。