削除された内容 追加された内容
GENTOS (会話 | 投稿記録)
GENTOS (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
114行目:
***[[軽空母]]:[[インディペンデンス (CVL-22)|インディペンディンス]]([[インディペンデンス級航空母艦|インディペンデンス級]])他
 
== 損害と結果 ==
=== 日本軍 ===
*航空機 312機
123行目:
*小破:[[ハンコック (空母)|ハンコック]](正規空母)
 
;日本軍の戦力
== 結果 ==
;戦力
この航空戦で[[捷号作戦]]で期待された[[T攻撃部隊]]のほとんどを消耗してしまった。それでも搭乗員80組が残っており、ただちに再編に着手するが、早くても10月末まで回復の見込みがなく、[[捷号作戦]]の[[レイテ沖海戦]]で、第六基地航空部隊は精鋭のT攻撃部隊の活躍を期待できず、練度の低い混成の実働機300機にも及ばない航空兵力を主力として臨まなければならなくなった<ref>戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで712頁</ref>。
また、[[T攻撃部隊]]の作戦として予定していた、米機動部隊が停泊して活動が不十分な夜間に奇襲する[[丹作戦]]の実行も不可能になった<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期545-547頁</ref>。
132 ⟶ 131行目:
同航空戦中、第一航空艦隊長官[[大西瀧治郎]]中将が新竹で味方の飛行機がバタバタ落とされるのを見て、技術的劣勢を知ったことが神風特攻隊創設理由の一つとする説があるが、副官の[[門司親徳]]によれば大西の見える距離でそのような展開はなかったという<ref>門司親徳『回想の大西滝治郎 第一航空艦隊副官の述懐』光人社25頁</ref>。また、{{要出典|この戦いにおいて在フィリピンの第一航空艦隊(一航艦)は戦力約150機のうち約7割にあたる110機以上を失っており、連合軍艦隊との決戦のためフィリピンに突入してくる連合艦隊の上空直掩という任務を与えられていた一航艦は、この戦闘の結果その任務遂行能力を失い、日本軍の特攻戦術採用理由の一つとなった。|date=2014年1月}}
 
;== 戦果誤認 ==
同航空戦では戦果を大きく誤認している。誤認の原因としては以下が挙げられる。夜間攻撃に予定されていた照明隊が吊光投弾使用の困難からほぼ実施されず、夜間索敵となったが、接触機もなく、攻撃避退、戦果確認が至難であり、自爆機の海面火災も誤認の原因となった<ref>戦史叢書45 大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 448-449頁</ref>。捷号作戦では夜間攻撃が重視されていたが、元来夜間攻撃は目標戦果認識困難である上、練度も上達する時間的余裕がなかった。<ref>戦史叢書37 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 721-722頁</ref>米側のハルゼーも攻撃を受けた際に米艦隊が炎上した様子を見て大損害を受けたと誤認しており、日本の米機動部隊撃滅報告も無理のないことだった<ref>戦史叢書37 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 722頁</ref>。
 
壊滅したはずの米戦力が発見されると連合艦隊(日吉)司令部で、連合艦隊航空参謀[[淵田美津雄]]中佐、軍令部航空参謀[[鈴木栄二郎]]中佐、第二航空艦隊兼T攻撃部隊航空参謀[[田中正臣]]少佐、連合艦隊情報参謀[[中島親孝]]少佐の4人で再検討が行われた。1949年7月31日に[[淵田美津雄]]が[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]からの質問に答えた陳述書によれば、田中を招致して、淵田と鈴木で田中の持参した資料を検討し、中島の意見も求め、その結果いくら上算しても空母4隻撃破程度で撃沈はまずあるまいと結着したという<ref>戦史叢書37 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 716頁</ref>。軍令部で現地に派遣調査させた[[三代辰吉]]も同様の判断をしたという<ref>戦史叢書45 大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 448頁</ref>。連合艦隊参謀[[淵田美津雄]]大佐によれば、誤認について参謀長申進を以て注意をしており、10月17日「[[捷一号作戦]]警戒」発令で敵空母10隻健在のもと対処するように通達したため、連合艦隊、軍令部、各航空隊も敵空母健在と判断していたという<ref>戦史叢書37 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 728頁</ref>。戦後、[[田中正臣]]はこの再検討の際に話し合われた内容について「覚えていない。そういうこと(忘れてしまうこと)もある」と話している<ref>[[日本放送協会|NHK]]製作[[テレビ番組]]『幻の大戦果 大本営発表の真相』インタビュー</ref>。
 
戦果誤認は以前から問題になっており、[[中澤佑]]軍令部部長によれば、連合艦隊司令部の報告から不確実を削除し、同司令部に戦果確認に一層配慮するように注意喚起していたが、同司令部より「大本営は、いかなる根拠をもって連合艦隊の報告した戦果を削除したのか」と強い抗議電が参謀長名で打電され、結局反論なくうやむやになっていたという<ref>戦史叢書37 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 726頁</ref>。軍令部参謀[[藤森康男]]によれば、疑念もあり軍令部作戦課はさらに検討を加えたが、さしあたり公的には現地部隊報告を基礎に資料作成するほか名案もなかったという<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 447頁</ref>。
 
陸軍では、[[大本営]]情報参謀であった[[堀栄三]]の回想によれば、フィリピン出張の途上で台湾沖にて航空戦中であることを耳にして、「今までの戦法研究で疑問符のつけてある航空戦だ、この眼で見てみよう」と思い立ち、[[鹿屋航空基地|鹿屋]]で実際の航空兵から戦果確認方法について聞き取り調査を行うが戦果に対しての疑問は解消できず、「当該戦果は如何に多くても数隻程度と推測」と大本営陸軍部第二部(情報)長宛に打電した。<ref>「大本営参謀の情報戦記」 160頁-164頁</ref>その後作戦課へ報告されたが、省みられることがなかったという。