「朽木元綱」の版間の差分

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[[元亀]]元年([[1570年]])の[[金ヶ崎の戦い|朝倉攻め]]においては[[松永久秀]]の説得を受けて[[織田信長]]の京都撤退('''朽木越え''')を助け、後に信長に仕え信長麾下として[[磯野員昌]]、その追放後は[[津田信澄]]に配されているが、[[天正]]7年([[1579年]])には代官を罷免されているので、信長からは厚遇されていなかったようである。信長の死後は[[豊臣秀吉]]に仕え、[[伊勢国|伊勢]][[安濃郡 (三重県)|安濃郡]]・高島郡内の[[蔵入地]]の代官に任ぜられ、[[小田原征伐]]にも参加、朽木谷2万石を安堵されている。
 
[[天正]]18年([[1590年]])、秀吉より[[豊臣氏|豊臣姓]]を下賜された(村川浩平『日本近世武家政権論』、近代文芸社、2000年、37頁)
 
[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では、当初は[[大谷吉継]]に従って西軍に属したものの、[[小早川秀秋]]に呼応して[[脇坂安治]]や[[小川祐忠]]、[[赤座直保]]らと共に東軍に寝返った。戦後、通款を明らかにしなかったとの理由により減封(9,590石)された。