「ウェストミンスター信仰告白」の版間の差分

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[[イングランド内戦]]時(1642年 - 1649年)、イングランド議会はスコットランドの政治を掌握していた[[カヴェナンター]]と同盟を結んで[[チャールズ1世 (イングランド王)|チャールズ1世]]に立ち向かった。121人の[[ピューリタン]]の牧師が参加したウェストミンスター会議の目的は、イングランド国教会の改革のための正式の文書を作成することであった。スコットランド教会は、すでに[[主教戦争]]で[[主教]][[監督制|制]]を打倒し、[[長老制]]を採用していた。[[イングランド]]と[[スコットランド]]は、同盟のため[[国民契約]]を結成した。それは、イングランド国教会が[[監督制]]を放棄し、カルヴァン派の教理と礼拝を採用することを意味した。イングランドは、信仰告白と教理問答でスコットランドの助けを得た。会議に出席していたスコットランドの委員は作成された信仰告白に納得し、この信仰告白は[[1646年]]にイングランド議会と、スコットランド教会の大会に提出された。スコットランド教会は[[1647年]]にそのまま改正なしの信仰告白を採決した。イングランドは根拠聖句を要求し、信仰告白を会議に差し戻した。議論の末、イングランド議会は、[[1648年]]に信仰告白を採決した。翌年、スコットランド議会は改正せずにそれを批准した。
 
[[1660年]]の[[イングランド王政復古|王政復古]]による主教制、監督制の復活の結果として、この議会の採決は無効にさせられた。しかし、[[名誉革命]]で[[カトリック教会|カトリック]]の[[ジェームズ2世 (イングランド王)|ジェームズ2世]]を廃し、[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ウィリアム3世]]が王位につくと、王はスコットランド議会に再びウェストミンスター信仰告白の批准を認めた。
 
==内容==