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{{改名提案|松浦隆信 (平戸藩主)|t=松浦氏|date=2015年7月}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = 松浦 隆信
松浦隆信
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| 画像サイズ =
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| 特記事項 =
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'''松浦 隆信'''(まつら りゅうしん/たかのぶ、[[1592年]][[1月13日]]([[天正]]19年[[11月29日 (旧暦)|11月29日]]) - [[1637年]][[7月16日]]([[寛永]]14年[[5月24日 (旧暦)|5月24日]]))は、[[江戸時代]]前期の[[大名]]。平戸の[[平戸松浦氏|松浦氏]]第28代当主。[[肥前国|肥前]][[平戸藩]]第3代藩主。曽祖父[[松浦隆信 (道可)|道可]]と同名を名乗る。
 
第2代藩主[[松浦久信]]の長男。母は[[キリシタン]]大名[[大村純忠]]の娘ソニカ([[松東院]])。正室は[[大胡藩]]主・[[牧野康成 (大胡藩主)|牧野康成]]の娘、継室は[[大村喜前]]の娘。子は[[松浦鎮信 (天祥)|松浦鎮信]](長男)、[[松浦信忠]](次男)、娘([[秋月種信]]正室)、娘([[秋山正俊]]正室)、娘([[松浦重賢]]室)、娘([[松浦辰純]]室)、娘([[松浦信方]]室)。官位官職は従五位下、壱岐守。法号は正宗院殿前壱州大守向東宗陽大居士。墓所は[[平戸市]]正宗寺。
 
幼少時に父によって[[受洗]]したが、その後[[江戸幕府]]の禁教令により棄教している。[[慶長]]8年([[1603年]])、父・[[松浦久信|久信]]の死により12歳で[[家督]]を相続、祖父・[[松浦鎮信 (法印)|鎮信(法印)]]が後見した。
 
慶長17年([[1612年]])、本姓が[[豊臣氏|豊臣姓]]であることが確認される。<ref>村川浩平『日本近世武家政権論』、近代文芸社、2000年、41頁。</ref>
 
寛永14年(1637年)没し、跡を長男・[[松浦鎮信 (天祥)|信(鎮信、天祥)]]が継いだ。
 
== エピソード ==
隆信の祖父・鎮信は平戸[[イギリス商館]]や平戸[[オランダ商館]]開設に尽力した人物として、[[イギリス]]では日本の[[ルキウス・リキニウス・ルクッルス|ルクルス]]と呼んで賞賛していたが、隆信は貿易に無理やり介入して多大な損を被らせた人物として、Foolish tono(バカ殿)という不名誉な仇名が付けられていた。
 
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<references/>
 
== 参考文献 ==
*『朱印船』([[永積洋子]]著、[[吉川弘文館]]、2002年)
*『江戸の英吉利熱』([[タイモン・スクーリー]]著、[[村山和裕]]訳、[[講談社]]、2006年)