「弘前藩」の版間の差分

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== 沿革 ==
[[ファイル:Tugaru Tamenobu.jpg|right|thumb|200px|初代藩主、津軽為信]]
津軽氏は、元は大浦氏を称した。大浦氏は[[大光寺氏]]などと同様に[[南部氏]]の支族であったが、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末、初代藩主となる[[津軽為信|為信]]が南部氏内部に起こった争いを機に周辺の豪族を滅ぼして勢力を広げた。為信は[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]に参陣して[[大名]]の地位を公認され、[[関ヶ原の戦い]]では[[徳川家康]]に味方して藩の基礎を築き、以後津軽氏が[[江戸時代]]を通じて[[津軽地方]]一帯を治めた。
 
戦国時代初期、三戸南部氏の当主'''[[南部信時]]'''は津軽地区を領国内に納めようと進出をおこない、四男'''[[達子光康|達子弾正光康]]'''を外浜堤ヶ浦に配置し「'''津軽郡代'''」とするとともに、[[延徳]]3年([[1491年]])に一族の'''[[大浦光信|南部光信]]'''を津軽西浜[[種里城]]に配置し[[安東氏]]への押さえとした。
[[文亀]]2年([[1502年]])、種里城主南部光信は[[大浦盛信|盛信]]を新たに築いた[[大浦城]]に置き、大浦盛信は「大浦屋形」と称され、喜田、大浦を含む[[鼻和郡]]は勢力基盤となっていく。
 
そして、天文15年([[1548年]])以降、三戸南部氏は当主[[南部安信]]の弟'''[[石川高信|高信]]'''を[[石川城]]に、'''[[南部政行]]'''を[[大光寺城]]に配置し、強力な支配体制を築き上げた。
 
[[大永]]6年([[1526年]])、大浦氏の初代'''光信'''が没し、嫡男'''盛信'''が跡を継ぎ、以後、三代は盛信の娘婿'''[[大浦政信|政信]]'''、四代は政信の子'''[[大浦為則|為則]]'''、永禄10年([[1567年]])婿養子として入った'''[[津軽為信|為信]]'''が五代目としてが継承した。
 
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末、初代藩主となる[[津軽為信]]が南部氏内部に起こった争いを機に周辺の豪族を滅ぼして勢力を広げた。為信は[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]に参陣して[[大名]]の地位を公認され、[[関ヶ原の戦い]]では[[徳川家康]]に味方して藩の基礎を築き、以後津軽氏が[[江戸時代]]を通じて[[津軽地方]]一帯を治めた。
 
弘前藩の領地と石高は、当初陸奥国津軽領4万5000石と関ヶ原参陣の功によって加増された[[上野国]]勢多郡大舘領(現[[群馬県]][[太田市]]尾島地区など)2000石の計4万7000石。[[元禄]]2年([[1689年]])に黒石津軽家の分家が絶え、分知していた1000石を召し上げられて4万6000石となる。この際領内に生じた飛び地の[[天領]]を解消するため、元禄11年([[1698年]])に幕府との間で領地を交換し、大舘領を返上して陸奥国伊達郡秋山村(現[[福島県]][[伊達郡]][[川俣町]]内)を取得した。その後、9代[[津軽寧親|寧親]]の代の[[文化 (元号)|文化]]年間に高直しがあり文化5年([[1808年]])に10万石となった。これに伴い[[官位|従四位下]]昇進と[[伺候席#大広間|大広間]]詰めが認められ、準国持ち大名に列することになった。この家格向上は蝦夷地警護役を引き受けることに対してなされたものであり、実際の加増を伴わないため藩の負担増ばかりを招いた。またこの家格向上により、対立関係にあった[[盛岡藩]]主[[南部利用 (吉次郎)|南部利用]]より寧親が上座となり、これに対する屈辱から盛岡藩士の下斗米秀之進が寧親の暗殺を計画した[[相馬大作事件]]が引き起こされた。