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:若槻礼次郎著『古風庵回顧録』によれば、「この奥村の家は、家族の続柄が非常に複雑であった。[[戸主]]が二人の男の児を残して死んだ。軽輩の[[足軽]]でも、僅かながら禄を貰っている。しかし[[戸主]]が死んで、相当な年配の子供がないと、禄を取り上げられてしまう。それで私の実父が、その未亡人の所へ聟入りし、家を継いだ。そしてその間に、私の姉と私と二人の子供が生まれた。ところが私の実母は、私の三つの時に亡くなり、父は後添えの妻を貰った。幼年の私は、専らこの[[継母]]と年上の姉に育てられた。父違いの兄たちは、十以上も歳が違う。私は実母の顔を覚えていない。」という。
* 父・'''仙三郎'''(松江藩の[[足軽]])
:真面目な努力家であるほかに[[酒豪]]としても聞こえていた。明治35年(1902年)10月没。<ref>豊田『宰相・若槻礼次郎』173頁</ref>。
* 実母・'''クラ'''(袖山庄右衛門の娘)
:クラは奥村柳右衛門の後妻であった。柳右衛門との間に[[奥村譲|譲]](ゆずる)を生み、柳右衛門の死後、[[養子]]にきた仙三郎との間にイワと礼次郎を生んだ<ref name=sa172>豊田『宰相・若槻礼次郎』172頁</ref>。
* [[継母]]・'''ヤオ'''(樋口廉蔵の娘)
:法学博士[[岸清一]]は幼い頃、奥村家に遊びに行ってヤオに叱られたこともあったらしく、後年、次のように回顧している。「ヤオという人は私の母の妹といわれていたが、頭がいいかどうかは疑問があるが、ともかくやかましい[[叔母]]であった、ということを記憶している」<ref>豊田『宰相・若槻礼次郎』174頁</ref>。
* 姉・'''イワ'''
* 兄・'''[[奥村譲|譲]]'''(ゆずる、松江・雑賀小学校二代目[[校長]])
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=== 若槻家 ===
* 祖父・'''待齢(たいれい)'''
:[[養父]]敬の[[養父]]待齢(たいれい)は近在に聞こえた大酒家であった。その人となりはきわめて硬骨漢であり、けっして自分の信念を曲げない人間であったが、その酒豪ぶりをみていたトク子(徳子)は、「礼次郎があのような大酒家になっては困る…」とそれを心配していた。この待齢(たいれい)というトク子の祖父はかなり変わった人間で、ある時、[[養子]]の敬が勉強するところへきて、手にした鉄瓶の中の熱湯を敬の膝頭に注いだ。父のやり方を知っている敬は黙々としてその熱さに耐え、読書をつづけたので待齢(たいれい)は「やはり敬はわしが見込んだだけある。将来はエラブツになるじゃろう」とうなずいたという。<ref>[[豊田穣]]著『宰相・若槻礼次郎-ロンドン軍縮会議首席全権』191-192頁</ref>。
* 父・'''敬''' - 礼次郎の実母クラの[[弟]]
:敬は学問もよくできて[[江戸時代|旧藩時代]]から藩庁に出仕を命ぜられ、[[明治維新|維新]]以降は[[島根県]]の[[官吏]]として[[能義郡]]、[[大原郡]]、[[八束郡]]などの郡長を歴任。[[漢学]]、[[書道]]などに優れ、礼次郎は後に[[養父]]敬の文章、書などを集めた『槻隠遺稿』という追悼録を編集している<ref>豊田『宰相・若槻礼次郎』184頁</ref>。
* 母・'''ナミ子'''
* [[いとこ]]・妻・'''徳子'''(とくこ、[[養父]][[若槻敬]]の長女)
* 長男・'''[[若槻有格|有格]]'''(実業家)
* 長女・'''繁子'''([[田原和男]]の妻)
* 孫娘(元[[日本銀行]]総裁[[森永貞一郎]]の妻<ref>鈴木幸夫著『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』(19651965)145、145</ref>)
 
== 脚注 ==